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2023.07.03更新

だめをだいじょぶにしていく日々だよ

きくちゆみこ

この連載では、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、時に疑い、打ちのめされながら、いつも言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録を残していけたらと思っている。「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察を。たとえばそれは、「だめ」が「だいじょうぶ」に移り変わるまでの道のりでもある。毎月2回、のんびりおつきあいいただけたらうれしいです。


第5回「心の底」

どこまでいったら、「ちゃんとわかってもらえた」になるのか、自分でそのラインを引くことってできるのかな? たとえば心に目盛りみたいなものがついていたとする。話して、話して、ぜんぶ話して、それを丸ごと受け止めてもらえたと思ったら、目盛りまでちゃんといっぱいになるんだろうか。あとはもう、このことについて口にすることはない、その必要もない、だってすべてを伝えられたんだから、あなたに聞いてもらえたんだから。昔話みたいに、「はなしは、おしまい」と本を閉じ、満たされた気持ちで毛布にもぐる。そんなふうに、心が機能することってあるのかな?

*

ソフィ・カルの有名な展示作品『限局性激痛』は、失恋という、きわめて個人的な痛みの経験がモチーフになっている。恋を失うまでのカウントダウンを日記や写真で構成した第一部と、刺繍で縫い込まれたテキストがずらりと並ぶ第二部があって、その第二部がとにかく圧巻だった。失恋の激しい痛みと向き合うために、カルは自分にルールを課す。それは一日にひとりずつ他人に自分の話を聞いてもらい、代わりに相手の「人生最悪の体験」について語ってもらうというもの。なぜなら、「一番つらいのは自分の苦しみを人に語れないこと」だから。カルの語りは濃いグレイの布に白い糸、相手の語りは白い布に黒い糸で精緻に刺繍され、それらが交互に並んでいる。3ヶ月にも及ぶ対話のテキストはそれだけで胸に迫るけれど、展示を見て10年経ったいまも、新鮮な感激とともに思い出すことがある。それはプロジェクトが終了に近づくにつれ、カルのテキストがどんどん短く、また内容も淡白になっていくこと、さらには使われている糸の色が徐々に濃く変化し、最後には布と同化してほとんど見えなくなってしまうということだった。

失恋という、世間ではありふれているけれど、個人にとってはあまりに鮮やかで鋭い痛み。それを他者にくり返し語り、世間にふたたび還元することで、カルはそれを遠景として眺められるほどに癒されていく。「まあ、それだけのこと」と言えるくらいまで。記憶の風化のプロセスがこのように可視化されたことで、こちらの傷まで洗われたようだった。でも、痛みは実際に消えたわけじゃない。作品に近づいてみれば、一針一針縫い込まれた記憶はたしかにそこに残っている。手で触れることができたなら、そのでこぼこはリアルだろう。だからこれは、単純な癒しの記録というよりも、むしろ「痛みの置き場」みたいなものを扱った作品なのかもしれない。同じ痛みでも、たったひとりで、もしくは身内だけで「限局的」に受け止めるのと、複数の他者たちと一緒にそうするのでは、きっと見えかたも感じかたも異なるはずだから。たとえそれが陳腐で、ありふれた痛みでも。

失恋ではないけれど、わたしにも思わず何度も語りたくなるような痛みの経験がある。

*

先日、めずらしく母と買い物に出かけた。時おり利用していたオーガニックスーパーが閉店のために全商品20パーセントオフになるらしく、車で買い出しに行こうと誘ってくれたのだ。助手席のドアを開け、ハンドルを握る母の隣にさっとからだをすべり込ませる。車ならわたしもなんとか運転できるけど、都心では母に任せたほうが安心だった(東京育ちで道も詳しく、何しろドライバー歴はもう50年!なのだ)。オンが生まれてからは後部座席に陣取ることが多かったから、助手席に座るのはひさしぶり。ポニーテールがヘッドレストに当たるのがわずらわしくて、座席を少し倒してからシートベルトを引っ張る。車が走り出したとたん、自分が子どもに戻ったのがわかった。マンション前の急坂をそろそろ下る車のなかで、わたしは堰を切ったようにしゃべりはじめた。わたしの「十八番」、学童期の苦しい思い出について。

きっかけはオンの進学の話題だったかもしれない(わたしはいつのまにか、オンの存在なしで親と対峙することがむずかしくなっていた)。来年、オンは小学生になる。それにともなう引っ越しや資金繰りやスケジュールなんかのことで、わたしはいまから神経質になっていた。不確定の未来のことで不安をつのらせるのは幼いころから変わらない。でも、年を重ねるごとにそこに過去の記憶まで加算されて、わたしの心はさらに厄介になっていた。それがここで爆発した。そもそも母と買い物に行くことが決まった時点で、こうなることは予測できたんだけれど。

学校に行きたくない理由なら、もう、ほんとうにいくらでもあった。ひとりっ子で神経過敏なわたしにとって、集団生活はそれだけで緊張を強いるものだったし、縁もゆかりもなく移住してきた我が家は、半島の先端にある小さな港町ではいつもなんとなくよそ者だった。父は始発で都心まで通勤して毎晩遅くまでいないし、母は自宅で教室をひらいて少しずつ居場所を開拓していた。でも子どもにとっては学校が全世界、そしてその世界は毎日がカオスだった。低学年からはじまった学級崩壊に授業妨害、それに先生たちはヒステリックな怒号や脅し文句で対応した。わたしは「おどうぐばこ」の蓋がうまく開けられないだけでびくびくし、忘れ物を気にして毎晩ランドセルを何度も開け閉めした。仲間に入れてもらえない交換日記に悪口が書かれていないか知りたくて、クラスの女子たちの机のなかを探りたい誘惑とたたかう日々もあった。先生の怒りに触れると体育がすべて筋トレになり、おしゃべりをやめない生徒の机は廊下に放り投げられる。

「わたしは勉強が好きで、社交が苦手」。まだ子どもでも、それはちゃんとわかっていた。わたしはわたしが誰なのか知りたくて、世界はどんな場所なのか、大人たちに教えてほしかった。だからいつも思っていたのだ、5分休みも20分休みも昼休みも、ぜんぶなくなっちゃえばいいのにと。でも実際には、先生の声はボス格の生徒たちにかき消されてほとんど聞こえなかったし、休み時間はひとりになれる場所を求めてトイレで過ごすことが多かった。こんなふうに毎日緊張や疲弊が続くと、道徳心にも翳りがでるんだろうか? 学年が上がるにつれ、わたしは物をくすねたり、心を許した同級生に支配的なふるまいをするような人間になっていた。そんななかで自分のことを好きになるのはむずかしい。

「わたしはなんて嫌なやつなんだろう! 世界はなんて嫌な場所なんだろう!」

そんな気分で子ども時代を過ごしてきてしまったことが、大人になったわたしにはあまりにも情けなくてくやしくて、オンの進学を考えるたびに母や松樹に何度もぶちまけてしまう、「どうしてあのとき助けてくれなかったの」とか、「なんであなたはフツーに学校に通えたわけ」とか、質問なのか追求なのかよくわからないことを延々と。

「それで、いったいどうしてほしいの?」

なんとか口をつぐんだあと、たいていはこんな答えが帰ってくる。今回ももれなくそうだった。母はパーキングブレーキを踏み、車のエンジンを切った。いつの間にか目的地の駐車場に着いていた。
「その話は何度も聞いたから、わかってるつもりだよ。ごめんねって思ってる。学校に行きたくなかったのに、無理やり行かせて悪かったって。そのせいで、あなたが自分を守りきれなかったって思っているのも、わかってる。でも当時は『不登校』って言葉も知らなかったし、私学もあなたの体力じゃ遠すぎたからね、どうしていいかわからなかったのよ」。
母の言うことは理解できる、前回話したときもそうだった。
「過去のつらさはわかるけど、前を向くしかないじゃない?」

梅雨のあいまの快晴の日で、エアコンが切れた車内の温度はどんどん上がりはじめていた。「どん底に落ちたら、あとは這い上がるしかない」という言葉が頭に浮かぶ。でもわたしが落ちたのは「アリスのうさぎ穴」で、それはまるで底なしだ。すごいスピードで落下しているのに、あまりに深いから時間のなかに宙吊りになったよう。自分がどこに向かっているのか知りたくても、あたりは暗くて何も見えない。そのうちに、アリスは壁に戸棚があることに気づき、瓶やら何やらを手にとってみる。宙吊りの時間、わたしもアリスみたいにあちこちに手を伸ばす。記憶の引き出しをいくつも探り、余計なことをぶちまける――。

「うん、でも」、と言いかけて声がかすれる。汗がじわじわにじみ出すのを感じながら、わたしは言葉を続ける。
「でも、わかってほしいんだよ、こんなことがあった、あんなことがあった、そのたびにあたらしくわかってほしいの、つらかったね、かわいそうだったねって、わたしが話すたびにさ、」
何度も、何度も――と喉の奥でつぶやきながら、シートベルトを外して車のドアを開ける。汗でワンピースが全身にまとわりついてくる。広い駐車場を横切りながら、でも、わたしにほんとうに必要なのは、母の言葉ではないことがわかっていた。毎回こんなことをくり返していては、周囲を疲弊させるだけだということも。だからわたしは知りたかった、心に底があるのかどうだか。

* * *

2月、twililight主催のイベントに参加した。レベッカ・ブラウンの絵本『ゼペット』の出版と、絵を担当したカナイフユキさんの原画展に合わせてお話し会が開催されたのだ。わたしはレベッカ・ブラウンの愛読者で、カナイさんがつくるジンの大ファンでもあったから、共同ホストとして呼んでもらった。イベントのタイトルは「シナモンロール・ホームパーティ」。レベッカ・ブラウンの短編集『体の贈り物』に重要なモチーフとして登場するそのペイストリーを、みんなで食べながら打ち明け話をする、という趣旨だった。『体の贈り物』には、ホームケア・ワーカーである「わたし」と、ケアを受け入れる側であるエイズ患者たちとの複数の交流が描かれている。「わたし」は患者たちの自宅ホームを訪れ、掃除や調理、入浴介助などの身の回りの世話をする。でもその期間はいつも限られている。たいていの患者は、病状の悪化に伴い、家を出て入院することになるからだ。「自分の中にある語られなかった言葉、存在を、そっと打ち明けることで、孤独ではないと感じられる『ホーム』が生まれたら」と、イベント紹介ページに店主の熊谷さんは書いていた。

わたしはこれまで、レベッカ・ブラウンの短編作品では、どちらかというと『私たちがやったこと』のほうが好きだった。ずっとふたりきりでいられるように、相手の目をつぶし、自分の耳のなかを焼いた画家と音楽家カップルの顛末が描かれる表題作のほか、恋人同士、新婚夫婦、女性興行主とカウガールなど、距離の近さと危うさを扱った、一人称の「わたしとあなた」の物語にずっと夢中になってきたのだ。そこでは「悲しいね」(「私たちがやったこと」)と「優しいね」(「アニー」)が同等の言葉として響くから、わたしはいつも泣いてしまう。他の誰の介入も許さない、「わたしたち」という真空宇宙のなかでは、時間にも空間にも制限がない。愛をつむごうとも憎しみをぶつけあおうとも、どこまでいってもふたりきり、それはまるで底なしの世界。そして底がないにもかかわらず、その世界はいつだって行き止まりなのだ。

お店のカフェスペースに椅子を円形に並べ、参加者たちとぐるりと顔を見合わせる。まだ春は遠い寒い夜、注文した熱いコーヒーはあっという間に冷めてしまった。背後の壁には、カナイさんの描いた『ゼペット』のやさしく悲しい絵がいくつも浮かんでいる。言わずと知れた童話『ピノッキオの冒険』に出てくる老人、ゼペット。しかしレベッカ・ブラウンの物語では、人形は人間として生きることを拒み続ける。この世界がどんなにうつくしいか、生きることがどんなにすばらしいか、ゼペットが何度語り聞かせても、人形は棚の上に座ったまま動かない。こうしてゼペットは息子を、「たったひとり」として自分を愛してくれる存在を求め続けながら、人生の終わりを迎えるのだった。

原画のひとつに、死の床につくゼペットの世話をするために、ベッドの周りに集まってきた村の女性たちを描いたものがある。わたしはその絵から目が離せなかった。血のつながりがあるわけでもなく、取り立てて仲が良かったわけでもなさそうな、たまたま同じ村で暮らしていた老女たちは、死にゆくゼペットの汗を拭き、手を握り、やさしい慰めの言葉をささやきかける。ゼペットの長い孤独の人生の最後に訪れた、他者とのごく短い交流の時間。そのイメージに惹かれながら、わたしは全員が集まるのを待っていた。

シナモンロールが提供されるまでの時間、みんなで自己紹介をすることになり、わたしはこんなことを提案した。

「今日一日、ここに来るまでにうつくしいな、と感じたことをひとつ教えてもらえますか?」

これはシュタイナーの教員養成で、その日の講座がはじまる前に毎回行われていることだったけど、いま考えてみれば、人形に語りかけるゼペットの描写にも影響を受けていたのかもしれない。

わたしがはじめに口をひらいた。わたしがその日うつくしいと思ったのは、自転車に乗る人たちの姿だ。三軒茶屋の駅から地上に出て、茶沢通りに向かおうと横断歩道を渡っているとき、自転車がさーっと通り過ぎた。自分が乗れないということもあるのだろう、自転車と一体となってまるで動物のようなスピードで進む姿がとてもうつくしく、特別なものに感じられたのだ。ほかには、前を歩いていたおじさんのリュックに花束がささっていたこと、夕暮れの光をまぶしく見つめたこと、枯れてしなびたチューリップのことなど、それぞれが見つけたうつくしさの話を聞いた。カナイさんは映画「エゴイスト」の舞台挨拶を見にいった帰りで、舞台上の役者たちの佇まいや言葉選びにうつくしさを感じたと言っていた。

これはもちろん、本題に入る前のアイスブレイクみたいな時間だったけれど、すでにどこか打ち明け話みたいだと思った。同じ一日を生きてきて、でも誰もがちがう「うつくしさ」を秘めてここにいる。そうした他者の心の見えなさに、毎回驚き胸を打たれて、別れたあとにはきっとすぐに忘れてしまう。そういうことのくり返し。でも、リュックに刺さっていた花の色も光のまぶしさも役者たちの表情も、わたしたちはそこに座って耳を傾けながら、たぶん一緒に見ていたのだ。完璧に同じ景色ではないかもしれない、でもそこには相手の心に近づこうとする衝動がたしかにはたらいていて、わたしはそれを尊いと思う。

焼きたてのシナモンロールが階下のNicolasから届き、みんなで歓声をあげた。甘くやわらかい独特の香りが漂ってくる。シナモンにはからだを温め、痛みを和らげる効果があるほか、その香りには人の孤独を癒す力があることは、事前にネットで調べて知っていた。あたたかくスパイシーな香りは、「homely」な慰めを与えてくれるのだと。「家庭的な」と訳すこともできるこの言葉は、本来、壁に囲まれたひとつの家のなかで共に暮らすという、物理的な距離の近さを意味しているのかもしれない。からだを寄せ合うと、たしかにそこには熱が生まれるから。でも、わたしたちは物質的な存在としてだけで、ここに生きているわけじゃない。ちがう場所からやってきて、ちがう場所に帰るのだとしても、ひととき心を近づけることで、熱を交換することはできるはず。たとえそれが一瞬でも、もう二度と会わなくても。わたしはもう、「ホーム」を底なし沼にしたくはなかった。

*

自分だけが見つけたうつくしさ。それを誰かと共有する時間がわざわざ教員養成で設けられているのは、シュタイナー教育が「真・善・美」の感覚を育てることを大切にしているからかもしれない。教員がもっとも深く関わる学童期の子どもたち、つまりは7歳から14歳ごろの子どもたちには、「世界はうつくしい場所だよ」と伝えることが、先にここで生きてきた大人たちの仕事になる。ちなみに7歳までは「世界はいい場所だよ」、14歳から21歳までは「世界には真実がちゃんとあるよ」、という気分のなかで子どもと関わることが意識されている。そうした時を経て、わたしたちはようやく自分自身で世界と向き合う準備ができる。

あのころ「嫌な場所」でしかなかった世界を、それでもうつくしいと思えるか。たとえば語学でも自転車でも、ある時期にやっていたら楽だったかもしれないことに、大人になってから取り組むのは骨が折れる。それでも、こうして人の「うつくしい話」を聞き続け、自分でも言葉にしようとするうちに、わたしの内側で何かが変わりはじめていた。カル作品の糸の色みたいに、気づかないほど、ごく控えめにではあるけれど。

たった1分ほどのあいだに、それも簡潔に語られる、今日一日だけの小さな思い出。ともすればすぐに忘れてしまえるような、この先どこかで話すことすらなさそうな、ごくささやかな感情の動き。でもその1分間の言葉のなかには、これまでその人が生きてきた人生が、丸ごとひとつぶん入っている。「うつくしい」という感情を、その気づきをもたらすのは、当たり前だけど、うつくしい感情だけじゃない。悲しみや喜びや怒りや絶望、それに「人生最悪の体験」なんかもぜんぶ絡まりあって、ひとりの人間の心をつくっている、その心が、感じている。底にたどりついたのかはまだわからない、そもそも底があるのかすらも。でも上を見てみれば、わずかに光が差し込んでいる。

会場では、焼きたてのシナモンロールにみんなが手を伸ばしていた。もぐもぐと口いっぱいに頬張り、しばらく無言の時間が流れていく。わたしはカップに残っていたコーヒーを飲み干すと、まだ温かいロールに勢いよくかぶりついた。

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