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だめをだいじょぶにしていく日々だよ
きくちゆみこ
この連載では、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、時に疑い、打ちのめされながら、いつも言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録を残していけたらと思っている。「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察を。たとえばそれは、「だめ」が「だいじょうぶ」に移り変わるまでの道のりでもある。毎月2回、のんびりおつきあいいただけたらうれしいです。
第6回「ビー・ヒア・ナウ」
「いてほしいときにいてほしいの! 抱っこしてほしいときに抱っこしてほしいの!」
やっとのことでベッドから這い出し、まだ寝ぼけまなこの平日の朝。松樹とオンは、わたしが昨晩冷蔵庫に用意しておいた朝食をあたため、すでに食べ終えている。あと少し、あと靴さえ履いてくれれば、松樹にすべてを託してオンを送り出すことができる――というところで、オンはすかさず地団駄を踏む。きっかけはたとえば、松樹が積み木のお城につまずいて倒したことだったり、今週の予定について松樹と早口で確認し合っているのが気に食わなかったり、もしくはわたしが冷蔵庫のかげに隠れて最後のプラムをかじっているのがばれたんだったり。とにかくありとあらゆることで大きく揺れるのだ、子どもの心は。
「なんでオンにはお話ししないの!?(ドン)きっちゃんとパパは夜いつもおしゃべりしてるんだから、朝はちょっともおしゃべりしないで!!(ドンドン)オンだけとおしゃべりしてよ!!!(ドンドンドン)」
子どものうちは心と体が未分化で、だから怒りや悲しみはすぐに行為としてあらわれる。地団駄はそのわかりやすい例だ。「じ・だ・ん・だ」というその濁音だらけの音にふさわしく、オンのそれは力強く鮮やかで、足を踏み鳴らすたびにびっくりマークをぐさぐさ地面に刺しまくっているよう。それがなんだかおかしくて、うっかり、ふふ、と笑ったが最後、「馬鹿にされた!」とよけいに泣くので、こちらの笑顔もすぐ蒸発する。手がつけられない、オレンジ色に燃える石炭みたいな子どもは、抱きしめようともあつあつでさわれない。なんとか宥めようとして威嚇され、手を伸ばしても振りはらわれる。ああ、こちらの心にも火がついてしまいそう! そんなときはしばらくそこから離れるのがいちばんで、だから洗濯機を回したり、たまった食器を洗ったり、何かをしながら気を紛らわせつつ目の端、意識の先っぽでこっそり様子をうかがっている。そんなときにオンは言うのだ、
「いてほしいときにいてほしいの! 抱っこしてほしいときに抱っこしてほしいの!」
その通りだな、と思う。いてほしいときにいてほしい、そうだよね。なんだか某コピーライターが昭和の時代に考えた、デパート用のキャッチコピーみたいではあるけれど。でも子どもは「トートロジー(同語反復)」のおもしろさなんて意図していないし、もちろん揶揄や皮肉の気配もない、だからそれはその願いのままひたすらまっすぐこちらに飛んできて、くすぶるわたしの胸に突き刺さる。すべてはいつだっていまで、いまを逃してはだめなのだ。
たとえば泣いているとき、怒っているとき、全身で周囲を蹴散らしながらそれでもいつでも待っている、背中をなでる大きな手を、心が静まる魔法の言葉を、なりふりかまわぬ抱擁を。そうしたごくささやかなもの、たとえばそれを愛とか思いやりとか呼ぶのは大袈裟に思えるくらい、ささいで気軽な他者からのアクション、アテンションが、一生ぶんの価値を持つことがある。でもそれはいつだっていま、いまこの瞬間に与えられるからで、それを逃したらぜんぜん役に立たなかったりする。わたしたちはたぶん、そういうものを小さい頃から求め続けて、でもたいていは手に入らない。そうして心に穴があく、いくつも、いくつも、それで底なしの心ができあがる。だからあのときの一瞬、たった一瞬が、大人になって数年分のカウンセリングに相当するなんてことになったりするのだ。
むかし、セドナのニューエイジ・ショップで買ったラム・ダスの本の表紙には、目がチカチカするような幾何学模様とともにこんな言葉が書かれていた:〈BE HERE NOW〉、つまり「いま、ここに、いる」。わたしはこの言葉を、これまでずっとセルフ・ヘルプのための呪文として使っていた。過去の後悔、未来への不安、そうしたことを一切忘れていまこの瞬間の自分の心と向き合うために。さあ、呼吸だけに集中して、吸って、吐いて、吸って、そうすればあなたは宇宙とつながることができる――。でも、わたしがつながりたいのは宇宙だけじゃない、それは目の前のあなた、いまこの地上に一緒に足をつけ、そう、足をどしどし踏み鳴らしながらわたしに何かを訴えているあなたで、だからこの言葉は、本来わたしじゃなくてあなたのために使うものだったのかもしれないのだ。そしてあなたが、わたしのために。
いてほしいときにいてあげる、いてほしいときにいてもらう。心の底、心のリミット、その満たされない空白を、これまでずっと深さや近さで測ろうとしてきたけれど。でもわたしたちに必要だったのは、物差しでもメジャーでもなく、ストップウォッチだったのかもしれない。そのあいまいな実存を、ぼやけたハート型の輪郭を、たしかなものにしたいなら、心はふたつぶん必要なのだ、いま、ここに、共に。だから、さあ、いますぐボタンを押して――わたしはスポンジを握って泡だらけの右手をキッチンタオルでそのままぬぐい、リビングに駆け込み、あなたをぎゅうぎゅうに抱きしめる、一瞬を一生ぶんにするために――それができるときと、できないときと。いや、ぜんぜんできないときと。
*
臨床心理学者の東畑開人さんは、臨床現場で活躍するのみならず、その豊かでユニークな経験をもとにいくつも著作を発表している。そのうちのひとつ、『居るのはつらいよ』は、沖縄の「居場所型デイケア」施設に勤務していた日々を描いた回想録だ。施設に新任してきた東畑さんは、「人の話を聞く」という自分のプロフェッションの手前で、何もせずに「ただそこに人といる」ことを求められ、そのむずしさを痛感することになる。タイトルの通り、「いる」のは「する」よりもつらいのだ。「居場所型デイケア」とは、学校や職場、家庭など、社会のなかに「いる」ことにむずしさを抱えている人が、「いる」ことができるようになるために「いる」場所なのだと東畑さんは言う。そしてそこは、そうした一見不毛に思える「トートロジー」が可能になる、「ケア」に価値が置かれた空間でもあった。
「僕らは誰かにずっぽり頼っているとき、依存しているときには、『本当の自己』でいられて、それができなくなると『偽りの自己』を作り出す。だから『いる』がつらくなると、『する』を始める。
逆に言うならば、『いる』ためには、その場に慣れ、そこにいる人たちに安心して、身を委ねられないといけない」
いることのむずしさ、それも他者に求められた瞬間に、ただそこにいることの。でもその問題は、たとえば手が泡だらけだからとか、洗濯機がピーピー音を立てているからとかではない。オンのそうした直球の訴えを耳にするたびに、わたしは自分の心のまだ癒えていない部分がうずくのを感じていた。「いてほしいときにいてほしいの!」 それはずっと、わたしが身近なだれかに求め続けてきたことだったのだ。あのときの声にならない叫びがいまさら頭のなかでエコーして、体がぜんぜん動かない、自分の声しか聞こえない。相手の欲求の手前には、いつでも自分の欲求がどーんと立ちはだかっていて、それをよじ登った先にあるリビングはあまりに遠く、遠く、わたしはいつもタイミングを逃してしまう。そして求められていないときだけ、壁は簡単に崩れ落ちるのだ。遅れてやってきた抱擁のうざったさや、出し抜けの愛情表現の白々しさなら、よくわかっていると思っていた。それでもわたしは衝動のままにオンにべたべたひっついてしまう。いつでも遠いし近すぎる、いつでも遅いし早すぎる。
たとえばこんなふうに時間や空間における距離感を欠いた心の状態が、境界性パーソナリティ障害と呼ばれるんだろうか。少なくともわたしはそのように診断された。子どものころからその兆候はあったし、留学中にはずっとカウンセリングを受けていた(留学保険が適用されたのだ!)。でもわたしにとって、いまではそれは持病の喘息とあまり変わらない。健やかで穏やかな生活さえ送っていれば、ほとんど顕在化することはない。とくに松樹と暮らしはじめ、人生からドラマティックな状況が退却するようになってからは、心がひどく乱れることは減っていた。もちろん日々、感情はわかりやすくアップダウンする。そうした傾向はある。でも、このローラーコースターにも毎日乗っていればさすがに慣れてしまうもの。わたしはもう長いこと、自分の心の地図を描いてはそれをたどり続け、その入り組んだ構造を理解しようとしてきたのだ。ルートはほとんど把握しているし、傾斜がはげしくなるポイントもわかる。ウキウキ楽しめるわけじゃないけれど(本物のローラーコースターも乗れないし)、気を失うほどこわくはない。だからこれといった治療もせずに、専門書を読み込んだり文章を書いたりすることによって、心の安定を保っていたのだ、けれど、それもオンの登場であらたな局面を迎えることになる。
ある夏の夕方、オンとふたりで早い夕食を食べながら、ふと窓の外に目をやった。太陽はようやくビルの上に落ちかかり、それでもいまだに白くまぶしい光を放っている。「あかるすぎる!!」というのがその理由だったんだろうか、わたしは突如としてそこにいることに耐えられなくなった。わたしはとっくに食事を終えていて、オンのお皿にはおかずと混ぜてぐちゃぐちゃになったご飯と、お椀には冷えて動きを失った味噌汁がたっぷり残っていた。自分の食器を片付け、カーテンを閉める。けれど気分は変わらず、そのまま寝室に向かいふとんをかぶってまったく動けなくなった。ドアの隙間から、オンがわたしを呼ぶ声が聞こえてくる。わたしは耳をふさぐ。
これまでずっと、ポップにうっすら感じ続けていた「消えてしまいたいなあ」という感覚が、くっきりとした輪郭を浮かび上がらせてきた頃、秋が訪れ、冬が過ぎ、春が巡ってきてもそのままで、さすがにこれはまずいかも、と思いはじめたあたりでパンデミックになった。未知のウイルスにおびえ、ただでさえストレスフルな自粛期間、東京の狭い部屋で24時間3人で過ごさなくてはいけないことに、わたしの心は耐えきれなかった。あの時期、わたしたちは同じ時間に同じ場所で「BE – 存在」していたわけだけれど、ほんとうの意味で一緒に「いる」ことはできなかった。自分のためにも、誰のためにも〈BE HERE NOW〉ができなくなった心は行き場を失い、疾走し続けるローラーコースターに松樹もオンも同乗させてしまった、あのパンデミックの日々を、それでもなんとか生き延びた。もちろんみんなへとへとで。
*
苦労してつくった地図をあっさり失い、迷子になったわたしは久しぶりに心療内科を訪れた。それでも早々に離脱してしまったのは、アクリル板を挟んでマスク越しに行われる短い診療時間のせいなのか、課題として与えられたプリントに(弁証法的行動療法というのをやっていた)、傲慢にも「こんなのもう知ってる」と落胆を感じたせいなのか。『居るのはつらいよ』のなかで、東畑さんはクライエントと一対一で行う「セラピー」と、集団で共に過ごす施設における「ケア」のちがいを次のように説明していた。
「セラピーが非日常的な時空間をしつらえて、心の深層に取り組むものだとするならば、ケアは日常のなかでさまざまな困りごとに対処していく。深層を掘り下げるというよりは、表層を整えるといっていいかもしれない」
これを読んでハッとした。これまでわたしは専門書を読みあさったり、日記を書いたり、カウンセリングを受けたりと、ほぼひとりで自分の心の底ばかり掘りまくってきた。でも、本来必要だったのは、ただ人といる、そのことに慣れる、受け入れるという、心の表層部分と向き合うことだったのかもしれない。それでわたしは、横浜シュタイナー学園の教員養成講座に通うことにした。とくべつ突飛なアイディアではなかったと思う。わたしは自分の日常に「人といる」時間を増やす必要があったし、学校生活でついた傷は、学校で癒さなくてはならないといつもどこかで感じていた。それに学校の先生は、まさに人と毎日共にいる場をつくるエキスパートだったりするのだ(それは通いはじめてから気づいたこと)。
国語、算数、社会といった一般的な科目から、手仕事、にじみ絵、フォルメン、オイリュトミーなどの独自のカリキュラムまで。まるで子どもに戻ったようにわたしは何もかも新鮮に授業を体験した。それは細胞のすみずみまで水が行き渡るような感覚で、わたしは自分がどんどん元気になっていくのを感じていた。朝から晩まで、それも毎ブロック3〜5日間連続(2年間で全8ブロック)で人と共に過ごすという、わたしにとってはハードすぎるスケジュールでも、自分都合で欠席することなく続けられているのは、どの授業も、頭だけじゃなく、心も体も、自分を丸ごとぜんぶ使えるようなカリキュラムであることが影響しているのだと思う。わたしたちは心を弾ませて歌い、手をつないで踊り、言葉を交わして議論して、「全身全霊」でそこにいた。
受講前に日程表が配られた際、音楽の授業だけがすべてのブロックに組み込まれていることが不思議だった。シュタイナー学校の生徒たちは、バイオリンやチェロなど楽器を弾ける子が多いと聞いていたから、音楽の授業ではさぞかしたくさんの楽器に触れられるのだろうと思っていた。でもその予想は外れ、少なくとも初期のブロックではまったく楽器に触れず、講座ではその後も演奏目的での楽器はほとんど使われることがなかった。
その代わりにわたしたちがしたことは、たとえば薄い大きなシルクの布の端をペアで持ち、ふわりと膨らませてからゆっくり床に降ろすこと。先生が吹く笛の音が聞こえているあいだ、静かに教室内を歩き回り、また空飛ぶ鳥のように列をなして駆け回ること。音が止んだときにそばにいる人となんとなくペアを組み、隣り合ってしばらく歩く、なんてこともあった。なかでも印象に残っているのは、毛糸で編んだボールを使った遊びのような時間だ。輪になって座り、ひとりずつ目の前にいる人にボールを転がしていくというごく単純なゲーム。ニットボールは完全な球ではないので、まっすぐに転がらないこともある。だから受け取る人は腕を遠くに伸ばして拾いにいこうとするなど、そのたびに和やかな笑いが起きていた。それから音楽の先生が言った。
「じゃあ今度は先ほどと同じ相手に、目をつぶったまま転がしてみましょうか。受け取る人も目を閉じて。でも心配しないで、ボールは必ず届きますから」
「必ず」という言葉が強調された気がして、わたしは少しどきっとした。単なる遊びだったはずが、とたんに緊張を感じてしまう。もう大人なのに、ただのゲームなのに、それでもわたしは失敗するのが恥ずかしいんだと気づいて、自分にがっかりしてしまう。フルーツバスケットや椅子取りゲーム、円をつくって行われるゲームで経験した嫌な思い出が蘇ってくる。そうするうちに、わたしの番が回ってきた。向かいにいる人と一瞬視線を交わし、目を閉じる、とほぼ同時に手のなかには毛糸のボールが飛び込んできた。やわらかさとあたたかさ。いちどぎゅっとボールを両手で挟んでから、今度はこちらから送り出す。そこで待っているはずの手をただ信じて。目を開くと、ボールはちゃんと相手の手に渡っていて、すでに次のターンがはじまっている。そんなふうにして、あっという間に全員がボールを転がし終えた。
そう、「ボールは必ず届く」のだ。まっすぐスパッと転がせる人もいたし、手探りでボールを掴みにいく大胆な人もいた。でもほとんどの場合、そこにはまた、「見えざる手」の介入があった。ボールが転がる、軌道がずれる、すると目を開けている周囲の人たちは、思わずさっと手を出し、待ち受けている両手のなかにちゃんとボールが収まるように助けていたのだ。もちろん受け手はそのことを知らない。ただボールのやわらかさを感じるだけ。送り手も知らない。目を開けたときに自分がうまくやったと思うだけ。
これが何を意味するのか、授業のなかで説明されることはなかった。でも全員がボールを転がし終えたとき、輪のなかには満ち足りた空気が広がっていた。たぶんそれが大事なのだ。いま思い返してみると、音楽の授業ではいつも「聞く体」をつくっていた気がする。何かを「聞く」ためには、耳だけではなく全身がひらかれていなければならない。そのときわたしたちの体は、たしかに他者と共に「いる」。そして共に「いる」こととは、東畑さんが言うように「ケア」における最も基本的なスタンスなのだ。このゲームの意味するものが、たとえば「声の伝達」であるのなら、ボールはあるときには「他愛ない会話」であり、また別のときには誰かへの「励ましの言葉」だったりするんだろう。もしくはなんとか絞り出された「SOS」であったりも。だからこれはきっと「心の伝達」でもある。そのとき、ボールの送り手がケアする人になることもあれば、受け取り手がケアの役割を担うこともあって、そんなふうにケアがぐるぐる回っていく。では、その他の人たちにはどんな役割があるんだろう? やりとりの外側で、その様子を見守っている人たちがそこにいる意味は?
東畑さんは、共に施設で働く職員たちについて書きながら、ケアする人にもケアする人が必要なのだと語っていた。エヴァ・フェーダー・キティの『愛の労働あるいは依存とケアの正義論』を引きつつ、人をケアする「依存労働」(感情労働)に従事する人たちには、ケアを持続可能にするための支えとなる「ドゥーリア」という存在が求められているのだと。東畑さんにとって、それは臨床心理学という専門知識だったけれど、実際には産前産後の親の身の回りの世話をする「産後ドゥーラ」のような存在が想定されている。「ドゥーリア」とは「ドゥーラ」の複数形である。ケアの交換を行う人たちには、その外側で支えとなるような複数形の存在が必要なのだ。
あのとき、円のなかを行き交うボールの歪んだ軌道をぼんやり見つめながら、そこにとつぜん差し出される、そうせずにはいられない、いくつものささやかな手のことを、わたしはずっと覚えていたいと思った。もし、この世に天使がいるのなら、わたしにとって、それはそうした目には見えない手のはたらきなのだと、あのとき本気で思ったのだ。そしてわたしも、手を差し出したひとりであった。そうせずにはいられない、というささやかだけどたしかな衝動。それはきっと、だれのなかにも、わたしのなかにもそなわっている。〈BE HERE NOW〉が可能になるのは、「わたし」と「あなた」のあいだだけじゃない。「いてほしいときにいてあげる、いてほしいときにいてもらう」、それが叶うとき、そこにはきっと他のだれかの気配があって、小さな円が広がっている。たとえ目には見えなくても、最後まで気づかなくても。そうして差し出されているはずの手を、うっかり振りはらったりしませんように。
今年もまたあかるすぎる季節がやってくる。2年間通った「学校」を、わたしはこの夏卒業する。
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プロフィール

文章と翻訳。2010年よりパーソナルな語りとフィクションによる救いをテーマにしたzineを定期的に発行、言葉の可能性をひらく作品制作や展示も行う。著書に『愛を、まぬがれることはどうやらできないみたいだ』、『内側の内側は外側(わたしたちはどこへだって行ける)』、訳書に『人種差別をしない・させないための20のレッスン』(DU BOOKS)などがある。現在はルドルフ・シュタイナーの人智学をベースに、心とからだと言葉を結びつけるための修行をあれこれ実践中。