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2023.07.31更新

だめをだいじょぶにしていく日々だよ

きくちゆみこ

この連載では、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、時に疑い、打ちのめされながら、いつも言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録を残していけたらと思っている。「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察を。たとえばそれは、「だめ」が「だいじょうぶ」に移り変わるまでの道のりでもある。毎月2回、のんびりおつきあいいただけたらうれしいです。


第7回「完璧なパフェ」

先週、締め切り間近なのになかなか原稿が進まず、ひさしぶりに深夜をまわってもパソコンの画面をにらんでいた。テキストエディットに書いたものを、ワードファイルに打ち直して、あとは少し整えるだけ、というところで力尽きてお風呂に向かう。最近は湯船で読書する気力もあんまりなくて、何も持たない自由な両手がお風呂のなかでゆらゆら揺れる。そうするうちに、とつぜん甘いものを食べたい気持ちが湧いてきた。さっそく家のなかにあるはずのお菓子を頭のなかで羅列する。昨日スーパーで見つけて思わずカゴに入れた生八ツ橋の小さなパックと、松樹がオンのために買っていた南部小麦の素朴なクッキー。それから、ずっと前にお茶請けとしてもらった「エリーゼ」が一本、トートバッグの奥に入っていたはず。でもどれもなんかちがう、いま食べたいのはそれじゃない。せっかくこうしてリラックスしようとしてるんだから、ここで妥協しちゃだめだ、それこそもっと自分に甘く、ほんとうに食べたいものを見つけなくちゃ。食べたら確実にいやされるような、完璧な、そう、完璧な甘いもの――。

と、まじめに考えながら結局思いついたのは「パフェ」だった。あまりにベタだし、この前観たばかりの映画「窓辺にて」に完全に影響されている。「パフェって実際、ぜんぜんパーフェクトじゃないよね、だってたいてい食べきれないし」とぶつぶつ思っていた感想まで映画のセリフと一致して。でもほんとうにそうなのだ、パフェってあんまり完璧じゃない。少なくともわたしはまだ、完璧なパフェには出会えていない。ひとくち目は最高なのに、アイスがすぐに溶けだしたり、チョコソースが甘すぎたり、底のコーンフレークがしなしなになったり、だから最後まで食べきれない。スプーンを挿しただけで崩れそうになるのもちょっとこわい。パフェを食べるときだって、わたしはいつも妥協していて、だからもうほとんど注文しないのだ。

じゃあ、もしわたしがパフェをつくるなら? そこには何を入れるだろう。サイズも材料も何もかも、ぜんぶ自分の好きにできるなら? 甘いもの、完璧なパフェ、そもそもこの世にパーフェクトな食べものってあるのかな。わたしはそれを、食べたことはある?

たとえば「好きなものってなんですか?」と問われたとき、しばらく考えをめぐらせつつ、最後には「ケンタッキーフライドチキンです」と答えてしまう。ほんとうはブンボー・フエとかブン・チャーとか、ジュンサイとか、ちょろぎとか、他にも好きなものはたくさんあるのに、伝わらないかもと身構えて、いつからか「ケンタッキー」一辺倒で通している。それだって、最近は胸焼けして最初の3口くらいしか笑顔で食べられない。大人になったわたしにとって、「完璧な食べもの」とはむしろメニューには載らないような脇役で、最近オンと松樹と近所の回転寿司に行くようになってそれにハタと気づいたのだった。わたしはそこへ、ガリやわさびを食べに行っている。そう、わたしにとって完璧なのは、カレーにとっての福神漬けとらっきょう、焼き魚にとっての大根おろしとはじかみ、あるいはホットドッグにとってのクラッシュオニオンとレリッシュ、といった薬味的存在で、だから高級な寿司屋よりも「活美登利」、本格的なうどん屋よりも「はなまるうどん」に行くほうが俄然わくわくしてしまうのだ。そこでは、ガリやネギやわかめを自由に足すことができ、緑茶も粉を入れてぞんぶんに濃くできる。好きなタイミングで、好きなだけ。とにかく薬味に関しては、わたしにぜんぶまかせてお願い、という熱い思いを抱えて飲食店の暖簾をくぐっている。

*

「ぜんぶわたしにまかせて」という思いは、じつは薬味だけにはとどまらない。高校生のころ、わたしは多くのティーンたちがそうであったように「ヴァージン・スーサイズ」に夢中になり、ソフィア・コッポラに憧れていた。何かのインタビューで、ソフィアはこんなようなことを語っていた。「これまで服のデザインやインテリア、写真に音楽といろんなことに手を出してきたけど、そのすべてを自分でコントロールできるのは映画だけ、だから監督の道を選んだ」。それに真に受けたわたしは、事あるごとにその言葉を吹聴してまわっていた。映画のなかではね、世界がぜんぶ自分の好きにつくれるんだよ――。世慣れた友人からは、「それは彼女がフランシス・コッポラの娘だから言えることなんだよ!」と呆れられたけど、文学を勉強していた大学時代にもその思いは消えず、卒業後、留学先のカレッジではほとんど知識もないままにfilm/video学科を専攻した。あまりにナイーヴだったけど、わたしも自分だけの、完璧な世界をつくりたかったのだ。

すべてをコントロールしたいという欲求。それはどこから来たんだろう? 小さなころから高校に上がるまで、わたしは外見上のコンプレックスに苦しんでいた。背が小さく、太りやすく、とにかくいつも顔色が悪い。小児喘息もあったから、背中はアルマジロみたいにガチガチで、体操服に着替えれば、紺パンからおもちみたいな太腿がはみ出してしまう。わたしは自分の物理的な体にいつも圧倒されていて、そんな体に心が乗っ取られてしまうような恐怖をいつも感じていた。内面世界には、たしかに「わたしらしさ」のかすかなきらめきが生まれつつあった。でも思春期〜ハイティーンに突入する前の子どもたちにとっては、人の心はおろか、自分の心だって把握することはむずかしい。わたしは自分では支配できない、自分の手には負えない着ぐるみのなかに閉じ込められている気持ちがして、毎日こうした「外側のわたし」ばかりをクラスメイトに晒し、それだけで自分が評価されてしまうことに、小さな絶望を感じていたのだった。

でも高校生になってしばらく経つと、とつぜん心が自由になるのがわかった。ああ、わたしはこんな音楽が聴きたくて、こんな映画で涙を流し、こんな小説に心を揺さぶられたりするんだ! そしてきゅうくつな制服とぶきみに膨張しつづける胸やおしりに抵抗するかのように、わたしは内面世界をどんどん耕し、そこから外の着ぐるみをもつらぬく、秘密の回路をいくつも見つけはじめていた。まだSNSはもちろんblogもまともになかった時代、それは映画館やCDショップや書店に通うことだったり、趣味をわかちあえる友人との会話だったり(片思いをしていた人にそれが聞こえるように、バスのなかでわざと大声で話したこともあった)、毎日書いても書き足りない手紙の交換だったりした。少しずつだけど、わたしは自分の外側の世界も自分の手でコントロールできるようになっていった。ロッカーに派手なシールをいくつも貼っていたことも、ルーズソックスから紺のハイソックスに変えたことも、クレアーズで買った、てっぺんにファーのついたピンクのボールペンを手のなかでくるくる回したりしたこともそう(「クルーレス」でアリシアが使っていたあのペン!)。こんなふうに、自分の内面世界と、外側から眼差される自分との乖離をささやかに埋めていくことで、わたしはコンプレックスに折り合いをつけていったのだ。

結局カレッジでは何もつくらずに卒業した(映画製作こそ、ひとりではコントロールできない、チームワークの世界なんだということにようやく気づいた)。それから紆余曲折あって配給会社でインターンをしてみたり、日系企業でパワハラにあったり、それから大学院に入ってふたたび文学を専攻しながら、わたしは日々の葛藤をストーリーにしてTumblrに日々書き綴ることに夢中になっていった。そして帰国後、ジンをつくるようになる。そのTumblrこそが、ジンこそが、わたしにとっての「完璧な世界」だった。

ジンをつくることの喜びは、文章や写真はもちろん、編集もデザインもフォント選びも、どんな紙を使うのかも、ぜんぶひとりで決めることができる、というだけじゃない。それは高校時代の授業中、ルーズリーフにぎっしり書いてハート型に畳み、休み時間に友人に渡した何枚もの手紙みたいに、わたしの内側を丸ごと相手に差し出せるような、それをそのままちゃんと受け取ってもらえるような、どこか完結した安心を含んだ喜びだ。わたしがいま届けたいと思う自分だけを、そう、自分の庭にワッと咲いたかわいい花を何本か、くるりと束ねて「はい!」と届けに行くような、ダイレクトな喜びがそこにはある。たとえ規模は小さくても、届く範囲が限られても、一生知られることなく終わっても。「完璧な世界」、たとえばそれは、わたしの内側と外側の幸福な結婚みたいなもので、それから10年以上、わたしはこの幸福な結婚生活を守ろうとしてきたんだと思う。

でもある日、とあるTwitterの投稿を目にしてわたしはどきっとしてしまう。書店にずらりと並ぶ本を書く人の、その投稿には、装丁家やイラストレーター、編集者、校正者 etc……への愛に溢れる謝辞が書き連ねられていて、わたしはそれを読みながらいつの間にかおんおん泣いていた。こうした謝辞はめずらしいものではないから、これまでにも目にしたことは何度もある。それなのにこんなに動揺したのは、心の奥底でぐっすり眠らせ続けていたはずの思いが、とつぜん目を覚ましてしまったからなのか。たぶん、わたしはずっと、さびしかったのだ。さびしかったし、疲れていた。たとえば永遠に慣れない営業メールを書くことに。断られるかもしれない! とびくびくしながら書店まわりをすることに。ほとんど自分の分身みたいな作品を、自分の言葉でだれかに売り込み、認めてもらわなくてはいけないことに。ちょうどそのころ、松樹にこんなことを訴えては、しょっちゅう喧嘩になっていた。ねえ、わたしの書くもの、もっとほめてよ! なんでほめてくれないの――? わたしはこれまで、自分でつくった「完璧な世界」をだれかに届けるだけで、じゅうぶん人とつながれるんだと思っていた。でも気づかないうちに、わたしはもっと広い世界から、自分のことを締め出してしまっていたのかもしれない。

*

00年代の最後の秋、通っていた大学院の講堂でブライアン・イーノが公演する、というので日本人の先輩と聞きに行ったことがある。たいして立派な学校ではなかったけれど、学内のミュージアムでイーノが展示をして、それに合わせてレクチャーをしてくれることになったのだ。もうずいぶん前のことだから、展示も講演の内容もあまり覚えていない。でもあの夜、イーノはたしかに何度も〈surrender〉という言葉をくり返していた。それは主に、「降参する」、「諦める」といった受け身でネガティヴな姿勢を意味する単語だ。それでもこの言葉をあえて「積極的」に用いたとき、「他者に身を委ねる」という、とても健全でうつくしい態度に変わる――というようなことを、イーノは語っていたんだと思う。それは、自分という枠を超えた、何か大きな存在への信頼にもつながっているのだと。さあ、身を委ねよう、もしあなたがサーフィンをするなら波に、武芸をたしなむなら対戦相手に、そしてもし、あなたが芸術に取り組もうとしているのなら、まわりすべてのものに――。

でも、「身を委ねること」ってそんなに簡単にできるわけじゃない。それはイーノが言うように、他者への信頼とも関係しているし、信頼とはきっと、小さなころから時間をかけて築き上げられるようなものだから。いつも体を硬くして、できるだけ身を隠すように学校生活を送ってきたわたしは、たとえばプールの水に背をつけたとたん、そのままぶくぶくと沈んでいってしまいそう。だからわたしにとって、身を委ねることとは、そんなふうに「生きるか死ぬか」というとにかく極端なイメージと結びついていて、やるならぜんぶ自分で、自分でできないならもう諦める、という100/0の選択肢しか与えられていないと思っていた。

「完璧だ!」と思っていた世界は、プールに沈んだあとの世界だったのかもしれない。わたしは底から時おり水面を見上げては、プールサイドにいる人たちの楽しげな声に耳を立て、その笑顔をうらやましく想像しては、ひとりでせっせと閉じられた世界をつくっていたのかも。

ところでイーノの講演のあと、一緒に聞きにいった先輩はこんなことを言っていた。「大切なのは、ただ身を委ねるだけじゃなく、自分のなかにある〈control〉と〈surrender〉のちょうどいいバランスを、常に見出そうとする、そういう動きのある態度なんじゃないかな」。今では准教授としてアメリカ文学を教えているその先輩も、若いころは自律神経の不調や鬱に苦しんでいたことがあったという。大学院の授業にぜんぜんついていけず、日に日に落ち込んでいくわたしを、カフェテリアでぬるいコーヒーを飲みながらいつも励ましてくれたことを思い出す。あのころの自分が抱えていた大きな不安の、ほんの一部だったけれど、こうして先輩に受け止めてもらえていたことが、あの日々を進みゆく支えになっていたのだといまではわかる。

たぶん、わたしにほんとうに必要だったのは、「すべてをコントロールできる」パワーじゃなかった。安心を感じるために、わたしに必要だったのは。それはきっと、ありのままの自分、手には負えない部分も含めたわたしのままで、それでも一緒に外側の世界をつくっていけるような、他のだれかの存在だった。完全にすべてを手放さなくてもいい、委ねられないと思ったときにはそう正直に伝えたらいい、歩み寄り、一歩下がり、また少し近づいて。たぶん、信頼というものは、そうしたダンスのステップみたいな、常に変わりゆく小さなあいだの空間にこそ、育っていくものなんだろう。

いま、わたしはおそるおそる水面に顔出し、こうして用意してもらったあたらしい場所でこのエッセイを書いている。とても新鮮な気持ちで、〈黄昏 – トワイライト〉の光につつまれながら。やっぱりまだ緊張して、ぶくぶく沈みそうになることもある。だからできるだけ力を抜いて、夕焼けに染まる空に身をまかせて。そしてそう、だれかに身を委ねようと思えたとき、わたしたちは、すでに自分がたくさんのものに支えられてここにいることに気づくのだ。

スクリーンから顔をあげると、やっぱり深夜をまわっている。今夜も読書はなしにして、冷房で冷えた指先を温めよう。そしてまた、甘いものにぼんやり思いを馳せるのだ。甘いもの、完璧な食べもの。それだけで確実にいやされるような、甘くてやさしい完璧な。わたしは熱いお湯に身をあずけながら、いまいちど完璧なパフェをつくるところを想像する。それはひとりじゃつくれない、だから今度は、きっとあなたと。

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