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2023.08.14更新

だめをだいじょぶにしていく日々だよ

きくちゆみこ

この連載では、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、時に疑い、打ちのめされながら、いつも言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録を残していけたらと思っている。「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察を。たとえばそれは、「だめ」が「だいじょうぶ」に移り変わるまでの道のりでもある。毎月2回、のんびりおつきあいいただけたらうれしいです。


第8回「鎮痛剤と押し寿司」

とにかく低いわたしの平熱をかるがると超えていきそうな暑い夏、わたしが自宅以外でいちばん長く過ごしているのはおそらく近所のマクドナルドの3階席で、ここはエアコンの省エネ設定のせいか、容赦なく差し込む西日のせいか、長時間腕をむきだしにしてパソコンを打っていても冷えを感じることがない。こんなに完璧な室温のお店はほかにはなくて、だからLサイズのアイスコーヒーとともにいくらでも居続けられてしまいそう。それでも今日、このフロアの床には朝からずっと、大きなセミがおなかを上に向けて転がっていて、わたしはそれがいつ動き出すのか、それとももう死んでいるのか、気になってしかたがなくて原稿に集中できない。

虫が、とくにセミのことがどうしても苦手なわたしにとって、それが最も怖く感じられるのは、羽化直後の脆そうな半透明の姿や、完全な形をしたまま背中だけぱっくり割れてあちこちに残り続ける抜け殻でもなく、こうしておなかを晒しながら道に転がっている姿で、それがわずかに動いて見えてしまうのは、わたしの心臓がばくばく脈打っているから。その鼓動で大きく揺れるわたしは、彼らの最後の時をいつも見誤ってしまう。

ほとんどこじつけみたいだけれど、わたしにとって「過去」というのはそうした道ばたのセミのようなものだ、と遠くからその亡骸(たぶん)を見つめながら思う。もう終わった、もう動かない、もうこちらには何も働きかけてこないはずなのに、いま、こうして毎日心臓をはずませながら生きているわたしは、ふとしたきっかけでそれにあたらしい命を与えてしまうことがある。過去が息を吹き返す瞬間。たとえば今日、そのきっかけはポーチのなかの鎮痛剤で、いつも入れっぱなしにしているせいでアルミ部分が破れている。これが必要になるのはいまでは月に一度ほど、それでもわたしには、鎮痛剤を毎日のように飲み続けていた日々があった。

*

カレッジを卒業したあと、OPTというビザなしで1年間働ける制度を利用して、わたしはロサンゼルスのとある日系企業に就職した。日本では就活をせずにそのままこちらへ飛び出してきたから、面接を受けるのも、履歴書を書くのも、アルバイト以外でははじめてだった。とはいえ会社は現地法人だったから、履歴書もレターサイズの用紙1枚に自分でまとめるスタイル、面接もすぐに日程が決まり、受けてから数日と経たないうちにわたしは会社の人になった。当時のわたしは、あこがれだったアメリカ生活にちょうど「かぶれきった」頃。社会人としての常識みたいなものはわかっていたはずだったけれど、面接にはアーバン・アウトフィッターズで買った派手なワンピースを着て、目にはしばらく前からはまっていたヘイゼルグリーン色のカラコンを入れたままで行った。面接官は、日本の本社からこちらに来たばかりの気さくな男性と、すでにグリーンカードを取得して、長年ロサンゼルスで暮らしている同じく陽気そうな女性だった。年齢は、どちらも40歳を超えたばかりに見える。時間はなごやかに流れ、最後に付け足しのように長所を教えてほしいと聞かれたとき、「情熱的なところです!」と威勢よく答えたのを覚えている。オフィスの窓からは西海岸の強い陽が差し込み、わたしはその光に負けないくらい大きな笑顔をつくった。思えばあの会社で過ごした半年間のうち、というかロサンゼルスで暮らした4年間のうち、その瞬間こそが、わたしの自信や自己肯定感のピークだったのかもしれない。

子どもの頃、とにかく学校を休みたかったわたしは仮病のエキスパートだった。おなかや頭など、さまざまな部位が痛いフリをするのはもちろん、シーツの摩擦熱で体温計の温度をコントロールする、おでこに母の手が当てられるタイミングを見計らって頭を布団に突っ込んで熱くするなど、あの手この手で具合の悪さを演出することに命をかけていた。だから大人になって、継続的に「痛くないフリ」をすることになるなんて、思いもよらないことだった。

いくつかの企業とシェアしていたあの小さなオフィスで、わたしはアドミニストレーター業務を任されていた。冊子の編集・印刷や、クライアントとの電話・Eメールでのやりとりなど、ほとんどが日本語話者相手の仕事だったけれど、わたしはそのどれもうまくできず、初日から電話受けに失敗し(電話を切ったあと、気が動転して何も内容を覚えていなかった)、あっというまに自信も何もぺしゃんこになった。

直属の上司は、面接では陽気にふるまっていたTさんという女性だった。たいてい誰よりも遅れて出勤してきたけれど、ひとたびデスクに座ればがんがん仕事をこなし、そのあいだじゅうずっと、部下であるわたしやインターンの子の作業に目を光らせ、受け答えに聞き耳を立てている。そしてわたしたちの失敗に気づいたとたん、デスクに座ったまま、大きな声を上げて責め立てるのだ。「え~~~! なにやってんの~~~? ほんとに信じられないんだけど~~~~! 」小さなオフィスの真ん中で、彼女のそうした叫び声が聞こえるのは茶飯事で、営業部の人たちが電話をかけている最中だろうが関係ない。「なんでこんなこともできないんだろう~~~、バカなのかなあ~~~?」 たまらずに文脈を無視して声だけに集中すると、それは恋人のだらしなさをなじる、ひと昔前のギャルみたいな独特なトーンにも聞こえてきて、毎日びくびくしつつも、ここはマルキューかセンター街か……と妙になつかしい気持ちになることもしばしばだった。ゆるいウェーブのかかった長い髪をデスクの上にわんさと広げ、日本人ばかりのオフィスのなかではふくよかに見えるTさんは、何よりその声が醸し出す存在感が、オフィス全体を占領しているように感じられた。初老の社長も、本社から来たばかりのマネージャーも、彼女には頭があがらない。この会社ではTさんがすべての物事を把握していて、彼女なしではまわらない、だから彼女のふるまいを咎められる人など誰もいなかったのだ。

朝起きて、身支度をしているうちに心臓の鼓動はどんどん早まり、仕事を終え、家に帰るまでそれがずっと続いている。緊張のあまり、全身が心臓になったような毎日だった。ある日、Tさんに指示された通りに完璧にコピーを取らねばと苦戦していた午後、とつぜん心臓をつらぬくような痛みを感じて、わたしは床に座り込んだ。頭上のトレイにはどんどん紙が吐き出されていく。そのリズミカルな音を聞きながらなんとか正気を取り戻し、作業を終えてデスクに戻った。その日の帰り、ドラッグストアで鎮痛剤のadvilをたくさん買い込み、それからは痛みを感じるたびに口のなかに放り込んでいた。円筒状のそのプラスチックの瓶は、小さくて持ち歩きやすく、子どもの頃によく食べた「ジューC」のラムネみたいだった。

人生でいちばんつらかった時期は? と聞かれたら、しばらくじっくり考えたくなるほど、心が折れる経験はいくつもしてきたように思う。でも自分が最も「不幸」だと思っていたのは、確実にこの半年だった。わたしは自分がまったく得意ではないことを任され、いくら失敗して責められても、ぜんぜんうまくやれる希望が持てないことに一生を捧げるのかと思うと怖くなった。それは自分のなかの善なる部分、光り輝く自分の本性みたいなものが、どんどん萎縮して小さくなっていくような感じだった。のちに心療内科でWAISという検査を受けた際、わたしは能力に凸凹があり、「ワーキングメモリ」というカテゴリが低いということを知った。ワーキングメモリは、特にマルチタスクを行う上で必要になる能力で、それが低いと事務作業などに滞りが出るのだという。わたしはその凹みを、「言語理解」など比較的高めの能力で無理やりカバーしているために、常に心に負荷がかかっているのだと先生は説明した。納得しすぎて、思わず「うわ~~」と声が出た。そう、当時のわたしは、痛みを鎮痛剤で抑えていたのと同じように、「すべてうまくできるフリ」をするために、持っていたすべてのエネルギーをフル回転して働いていたのだ。そうしていないと、いつパニックを起こしてもおかしくないくらい、わたしの頭はいつも混乱していた。すると当然、1日が終わる頃にはすっかりからっぽになってしまう。歯磨き粉の最後のペーストを絞り出そうとして手がぷるぷる震えるようなとき、いまでもあの頃の自分を思い出す。

そんなぺらぺらのチューブみたいに過ごしていた日々、わたしを救ってくれたのは、週末に巨大スクリーンで観る超大作映画(「アイアンマン」からスタートしたMCU作品は、だからずっとわたしのヒーローなのだ)だったり、ビーチのレストランでカニやロブスターを食べまくることだったり、必ずどこかで行われている「フェスティバル」に恋人と遊びに行くことだったりした。ダウンタウンで行われていた「ギリシャ・フェスティバル」では、ウーゾという強いお酒を飲んで酔っ払い、主催者でもあるらしいトム・ハンクス夫妻のスピーチを聞いた。片道2時間かけて田舎町の「ウォーターメロン・フェスティバル」を訪れ、巨大スイカの景品欲しさにタネ飛ばしゲームに熱中したこともあった。カウンティ・フェアがあると聞いては必ず駆けつけ、ホイップクリームをたんまり載せたファンネルケーキをぱくぱく食べてストレスを解消した。外面的にはいかにもカリフォルニア!の生活をエンジョイしているように見えたかもしれない。でもわたしはそうした週末を心から楽しんでいたわけじゃなかった。それはウィークデイを生き抜くためのサバイバル術だった。だって、辞めるわけにはいかなかったのだ。わたしには、わたしが帰国してしまったら生きていかれないような恋人がいて、あの会社に就労ビザのスポンサーをしてもらうことなしに、この国に居続けることはできないと当時は思っていた。それにはじめてのフルタイムワークですっかり自信をなくしたわたしには、帰国しても何をしたらいいのかまったくわからなくなっていたのだった。

この小さなオフィスにも、同僚と呼べるような人がひとりいた。会社と提携していた語学学校に奨学制度を利用して留学していたサチコさんは、学費の一部が免除になる代わりに、授業後にインターンとしてオフィスで働いていた。とても真面目でやさしい人で、わたしたちはすれ違うたびにこっそり目配せをして励まし合っていた。帰宅後にメールや電話でそれぞれの仕事を確認し、Tさんに怒られないように知恵を絞り合うこともあった。サチコさんはホームステイ中で門限があり、わたしはわたしで共依存関係にあった恋人との生活で手いっぱいだったけれど、仕事帰りのカフェで、わたしが運転する車のなかで、心おきなく愚痴を言い合うことで互いを支えていたのだった。

ある休日、サチコさんとマンハッタン・ビーチにあるクレープ屋さんで食事をしたことがあった。あのカフェはシェフもウェイターもみんなフランス人で、太陽ぎらぎらのビーチエリアでも、パリにいるみたいな落ち着いた雰囲気があって好きだった。そのときに一緒に撮った写真がある。いまでは絶対に着ないような肩がむきだしのワンピース姿のわたしは、たっぷり日焼けして、相変わらずヘイゼルグリーンのカラコンを入れたまま満面の笑みを向けている。その隣には背が高くほっそりとしたサチコさん。いまのわたしには、そこに写る子どもみたいなふたりが抱えていた不安が手に取るようにわかる。それなのに、彼女たちのことをうらやましく見つめてしまうのはなんでだろう? わたしは24歳で、サチコさんは26歳の夏だった。先にオフィスで働いていた彼女は、年上であることに気を遣ってか、さまざまな局面でわたしのことを庇ってくれた。そんなサチコさんの存在を、わたしはいままでずっと求めていたお姉さんのように感じていたんだと思う。

もう辞めよう、と思ったのは、自分がつらかったからだけじゃない。ある日、サチコさんが仕事でミスをして、これまでにないほどにTさんが怒ったことがあった。クライアントにも影響がある内容だったから、サチコさんはそれを深刻に受け止めて、体調を崩し数日間仕事に来なかった。そのしばらくあと、サチコさんはこれまでずっと引きこもりだったことを教えてくれた。中学生時代から学校を休みがちになり、ほんとうにつらかった頃には、家から一歩も出られない日々が続いていたこと、そしてようやくやりたいことを見つけて、ここにやってきたのだということを。サチコさんの1年に満たない留学期間は、あと少しで終わろうとしていた。学びだけではなく、本来ならもっと自由に、はじめての異国での生活を満喫するはずだったんだと思う。それなのに毎日大きなストレスを抱え、ビーチや観光にもほとんど出かけないまま、たいていはホームステイ先の小さな部屋で過ごしていただろう彼女の姿を思って、わたしはやりきれない気持ちになった。でもそんなふうに思うだけじゃなく、わたしはもっとサチコさんを連れ出してあげたらよかったのだ。仕事の上では先輩でも、この街での暮らしはわたしのほうが長かったんだから。丘の上の美術館に、砂漠の小さな町。太ったトドたちがのんびり寝転ぶ北部の海岸、宝石のような夜景が一望できる、「E.T.」の舞台にもなったヴァレーエリアの住宅地――もっと心に余裕のあったころのわたしのお気に入りの場所――。でも日々の忙しさを言い訳にして、わたしは何もできないままにサチコさんは帰国した。最後の日々のことはなぜだかメールにも残っていなくて、どうやって彼女と別れたのかも、あれからどうしているのかも、いまのわたしにはわからない。わたしたちはきっと友だちではなくて、互いがどんな人間なのかもほんとうには知らなくて、でもだからこそ育めた友情みたいなものが確かにあったはずだった。

*

勤務中の唯一の息抜きは、もちろんランチタイムだった。食べる時間はみんなバラバラだったから、しばらくは小さな休憩室で食べていた。でもある日忘れものを取りに車に戻ったとき、そこで食べることを思いついてからはずっと車内で食べることにした。いったんエンジンをかけて、隣のオフィスプラザの広い駐車場に移動する。プラザ内のQuiznosでサブサンドを買い、特大サイズのコークと一緒にあっという間に流し込んで、しばらくぼんやり音楽を聴く。あの頃のわたしにとって、車はまさにサンクチュアリだった。そんな経験があったせいか、いまでも車のなかでごはんを食べると安心な気持ちになる。

でも土曜日だけは違った。営業部は休日で、オフィスにいるのは事務局のわたしとサチコさん、そしてTさんだけ。午前中にはたいていの仕事が終わり、午後は簡単な事務作業以外することはない。最初はそれぞれお弁当を持参していたけれど、いつからだろう、「押し寿司」が土曜のランチの定番になっていた。オフィスに置いてあるピンク色のパンフレットを開き、Tさんが代表で注文の電話をかける。「え~と~、おいなりさんが6つに、さば寿司とえび寿司も6つずつ。あ、あと卵巻きと巻き寿司も3つずつお願いします~」。オフィスから車で数分の場所にあるその押し寿司屋は、創業1962年の老舗で、電話で注文しておけば障子のある裏の小窓から、ぎっしり箱詰めされたお寿司を受け取ることができる。包み紙にはレトロなフォントで「ガーデナ市レドンドビーチ街……」と縦書きの日本語が書かれていて、取りに行くたびに、わたしが知らなかった日本がここにはあるという感じがした。メニューボードは「Inari」「Ebi」「Saba」などとローマ字で書かれていたけれど、壁には「パートタイムの従業員を、求めております」という手書き文字のチラシが貼られている。

日・月とウィークエンドが待っているせいか、それとも文句を言い散らしても聞いてくれる他の社員がいないからか。土曜日になると、Tさんはとたんにやさしくなった。わたしたちは狭い休憩室で体を寄せ合うように座りながら、押し寿司の箱に割り箸を伸ばした。マグロで有名な関東の海の町で育ったため、これまで数えるほどしか食べたことがなかった押し寿司を、あの頃わたしはTさんとサチコさんと毎週のように食べていた。記憶のなかで、Tさんはお寿司を食べながらうれしそうな微笑みを浮かべている。期間限定でいなくなってしまうインターンの子と、結局すぐに辞めることになる、ぜんぜん使えない、それでもこの先育てるつもりでいたはずの年下の女にはさまれて、彼女はいつもよりずっとリラックスしているように見える。Tさんは以前、キャビンアテンダントとして働いていたらしい。その後すぐにグリーンカードを取得して、ロサンゼルスで暮らすことになった。渡米して10年は経っていたはずだ。以前、きゃっきゃとはしゃぎながら、CA時代の写真を見せてくれたことがあった。写真のなかの彼女は、制服をすらりと着こなして、子どもみたいにっこり笑っていた。当時のわたしと同じくらいの年齢だっただろうか。

いま、ひさしぶりにあの店の名前をgoogle検索して、出てきたお寿司の写真を目にした瞬間、ぶわっと涙があふれてしまう。うすいピンク色の包み紙を開くたびに、休憩室にふんわりと広がった甘い酢飯のにおいを思い出す。わたしはたぶん、あの場所で、故郷の味みたいなものを見つけてしまったんだと思う。あの異国の地で、ほとんど自分にとって天敵みたいに思っていた人と、あとからうっかりなつかしく思い出してしまうような団らんの時間を、わたしはあのときつくってしまったのだ。ここでは、この日本人だらけの小さなオフィスのなかではどんなに偉そうにふるまっていたとしても。それでも一歩外へ出れば、わたしもTさんもただの移民にすぎなくて、どこへ行っても無意識に気を張って生きていかなければならない。そのことは、たった数年この国にいただけのわたしにも、痛いくらいわかっていた。

サチコさんが帰国して数ヶ月後、わたしも会社を辞めた。その頃には、職場環境のトキシックさに気づきはじめ、辞めることにも罪悪感はなくなっていた。オフィスで働くのもあと数日というところで、Tさんは体調を崩し、長く会社を休むことになった。重いインフルエンザで、わたしが辞めたあともしばらく出勤できなかったらしい。最終出社日に開催されたわたしの送別会には、Tさんをのぞく社員全員が参加した。贅沢に焼き肉をつつきながら、無礼講というようにみんなで飲んで騒いだ。たのしい夜だった。宴もたけなわという頃、営業部の先輩が、ぽろりとこんなことを口にした。「いまさら言うのもあれだけど…… Tさんね、ゆみこちゃんが入ってきたとき、ようやく求めていた人が来たって喜んでいたんだよ」――。泣き上戸のわたしは、ビールをたくさん飲み過ぎて、それからしばらくトイレで泣いた。心臓の、またべつの部分が痛かった。

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