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2023.08.28更新

だめをだいじょぶにしていく日々だよ

きくちゆみこ

この連載では、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、時に疑い、打ちのめされながら、いつも言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録を残していけたらと思っている。「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察を。たとえばそれは、「だめ」が「だいじょうぶ」に移り変わるまでの道のりでもある。毎月2回、のんびりおつきあいいただけたらうれしいです。


第9回「海のおうち」

お盆で実家に帰っている。といっても、両親ともこの土地の出身ではないし、もうこの家で暮らしているわけでもない。だからオンが生まれてからは、ここはいつの間にか「海のおうち」と呼ばれるようになっていた。家から10分ほど歩いてたどり着く海は、漁船がぷかぷかと浮かび、漁具や網のあいまをフナムシがかさかさと走り回るような、とても泳げる場所ではない。それでも日暮れ時には、夕日で金色に輝く水平線の奥に、シルエットになった富士山がくっきり見える。家の壁はブルーでも、どちらかといえば絵本『そらいろのたね』に出てくる家のようなあかるい空の色なのだけど、それでも窓を開けば潮風がかすかに流れ込んでくる。だからやっぱりここは、「海のおうち」なのだった。

この町に移住することになったのは、わたしが小児喘息になったからなのだと、これまでずっと思っていた。東京への通勤圏内で、少しでも自然に近い環境を、と選んだのがこの海の町だったのだと。それまでに暮らしていたのは典型的な郊外の町、いわゆる「ニュータウン」と呼ばれた大規模な新興住宅地だった。住民のほとんどが、結婚して子どもができたことで引っ越してきた若い家族だったから、町全体があたらしいコミュニティの機運に満ちていたんだと思う。父も母も町のコーラスグループに所属し、母はそこで出会った親たちと自主保育グループのようなものをつくっていた。わたしはそこで、いくつものあたらしい家族とその子どもたちと一緒に、幼稚園の年中まで過ごしたのだった。歴史を持たない、一からつくりあげていけるような関係性にいまでも惹かれてしまうのは、この時の思い出があるからなのかもしれない。どこからともなく集まり、一定の期間を経てまた離れていく、そんな一期一会の関係に。

就学前の年長の時期にここに越してきたのは、人見知りのわたしに少しでも早く友だちができるように、という両親の配慮だったんだろう。たしかに同じ幼稚園出身の子たちがクラスにいたことで、小学校に上がる緊張が少しは減った。それでも「ここではうちの家族以外みんな親戚なんだ」と勘違いしてしまうほど、この町では、わたしの知らない過去からのつながりのようなものが広く共有されているように感じられた。

まず通うことになったのは、お寺が経営する幼稚園。海を見下ろす高台にあり、目の前には近くの島とこちらをつなぐ大きな赤い橋が見渡せる。「鎌倉殿の13人」でも注目を集めた(わたしも推していた……)和田義盛が開いたというお寺で、幼稚園がなくなったいまでも、時おり観光客が訪れるような歴史スポットだ。そう、半島の先端にあるこの町には、そうした歴史を感じさせる場所があちこちにあった。家から歩ける場所には、源頼朝がかつて酒宴を催したと言われている公園があるし、北原白秋が校歌を作詞した小学校は、近代教育法令が公布された明治初頭に開校した、日本で最も古い小学校のひとつだということをつい最近知った。

でもそれよりずっと古いものがある。この町、というかこの半島自体がいわゆる「ジオサイト」だらけで、数千万年前もの痕跡がいたるところでむき出しになっているのだ。とくに、地層の一部がまだ柔らかいうちにぐにゃりと湾曲した「スランプ構造」は有名で、当時は理科の教科書に載っていたことが話題だったけれど、いまではWikipediaのページにわかりやすい例として掲載されている。今日も車で通りかかった際、小学生くらいの男の子がお父さんと地層の前で何やらメモをとっているのが見えた。夏休みの自由研究に使うのかもしれない。

でも、子どもは「いま」という時間を生きる存在なのだ。だからそんな彼らにとって意味を持つのは、こうした風土記めいた歴史ストーリーでも、トリビア的な地質学でもない。何かがちがう、うまくつながれてない、と気づくのは、たいてい日常のなかに溶け込んだささやかな文化や習慣だった。たとえばグループ分けで使う「グーパーじゃんけん」の掛け声ひとつでも、わたしはよそ者なんだ! と感じるのにじゅうぶんだったりする。いまではすっかり慣れてしまった(けれどぜんぜん使う機会のない)「グーパーじゃんけん、じゃーわっせ、じゃーわっせ」という掛け声も、慣れるまでは、アメとまちがえて口のなかで石でも転がしているような、なんともいえない居心地の悪さがあった。

セミの鳴き声がわずかに聞こえてきたかという時期、クラスの何人かがぽつぽつと授業を抜けるような日が出てくる。夏祭りのお囃子の練習をするために、早退することが許されている下町の子たちだった。ふだんはアニメの最新話やJリーグの試合結果なんかで盛り上がっている教室に、遠い過去の時間が流れ込んでくる季節のはじまりだった。お祭りには、わたしも毎年訪れていた。小さい頃は両親と、高学年になると親と行くのは恥ずかしく、近所のクラスメイトにくっついて行った。

下町の地区が持ち回りで神輿を担ぎ、山車をひく、江戸時代から続く伝統的な夏祭り。そこではもちろん、わたしの家族がになう役割など何もなくて、することと言えば、ふだんは食べさせてもらえないような屋台のフードを食べたり、絶対にうまくいかないとわかっていても真剣に取り組んでしまう、「かたぬき」にチャレンジすることだったりした。なかでも楽しみにしていたのは、氷をくり抜いた穴に果物と一緒に固められた「あんず飴」と、「かちわり」というどぎつい色のジュースを売る屋台だった。かちわりは、かき氷に使うシロップを、氷と一緒に金魚すくいのビニール袋に入れてストローを刺しただけのもの。それでも、色とりどりの透明な液体がずらりと並んでいるのがとにかくきれいで、喉の渇きもあいまって必ず買ってしまうのだった。

いつもよりずっと賑やかな夕暮れの下町をうろうろしながら、クラスメイトたちと屋台を回る。すると彼女たちのいとこや親戚、それに家族で行きつけの店屋の主人なんかが声をかけてくる。「よおー、来てんじゃんか、父ちゃんは元気してっか――?」しばらく立ち話に応じるけれど、子どもだから、みんな大人には少しそっけない。だからこそ付き合いの長さがうかがえる、そんなやりとりを、わたしは腕にかちわりの袋をぶらさげながらぼんやり見守っていた。舌についているはずのシロップの鮮やかな色が、自分では確認できないのがいつもさびしかった。

夏休みが明け、新学期になると、真っ黒に日焼けした子どもたちの腕には、何やら白っぽい紐が巻き付けられている。さきいかのように見えなくもないその紐は、神輿を先導する獅子舞の獅子の毛だ。おそらくは木の皮か何かを削ったものでできていて、手首や足首に巻いておくと、その1年は不幸をまぬがれる、という昔から伝わるお守りなのだ。

獅子の毛をもらえるのは、主に祭りの担当地区に住んでいる子や、下町で店をやっているような家族の子どもたちだった。だから腕に巻いた毛の太さは、地元との距離を示す指標なのだと子どもながらに思っていた。そうした子どもたちから、仲の良い友だちへ、その友だちから、また別の子へ。そんなふうにまわりまわって、わたしもおこぼれのように、薄く裂いた毛をもらえる年もあった。お守りやおまじないのような、ジンクスめいたものがたまらなく好きな子どもだったわたしは、みんなと同じく日焼けした腕にいそいそとその頼りない紐を巻きつけて、それでもすぐに切れていつの間にか失くしているのが常だった。高学年になると、縄のように太く撚られた毛を巻いている子もいた。獅子の毛は、日が経つうちにところどころ玉になり、汚れて茶色に変化していく、そんなことばかりがうらやましかった。

*

「わたしはなんでここにいるんだろう?」 そんな気持ちをぬぐえないまま、小中学校を卒業し、電車とバスをいくつも乗り継いで隣の市の高校に通うようになると、地元との関係もどんどん疎遠になっていった。東京の大学に入り、その後アメリカに留学してからは、出身をたずねられるたびに思わず「Tokyo」と答えてしまうか、日本の友人には「花巻」と言いたくなることもしばしばだった。母は東京で生まれ育ち、父方の祖父母のお墓はいまでも花巻にある。敬愛する宮澤賢治の生家の近所で育った父は、本籍地をいまだに変えずにいて、わたしも書類上は花巻の人である期間が長かった。とはいえ、どちらの祖父母もひとところに居つかず、いずれの土地にも家はなく、親戚づきあいもほとんどない。だからといっては大げさだけれど、なんとなくずっと根なし草の気持ちでいた。ロサンゼルスでうっかり「故郷の味」をつくってしまったのも、そのせいなのかもしれない(前回のエッセイ参照)。

震災が起きたのは、そんなふうに地元との距離が遠くなったまま、帰国してきた直後だった。その日、わたしは仮暮らしをしていた東京からいったん実家に戻り、翌日には両親とともに花巻にお墓参りに行くことになっていた。地元の最寄駅に着いて、駐車場に停めておいた車のエンジンをかける。大きな揺れを感じたのは、ちょうどその瞬間だった。原発事故が起きてしばらく経ったあと、父がぽろりとこんなことを口にした。「ここに引っ越してきた理由を、あらためて考えさせられたよ」。引っ越しを決めた80年代後半、編集者だった父は原発に関するある書籍の編集を手掛けていた。ムラサキツユクサの変異と事故の可能性を示唆したその本は、当時はほとんど注目されなかったらしい。それでも担当編集者だった父は、少しでも遠くへという気持ちから、この海の町に移住することに決めたのだった。

暮らす場所を変えることが、そのひとの人生においてどういう意味を持つのか、まだよくわからないままにこれを書いている。震災や災害その他あらゆる事情のために、これまで住んでいた場所を離れなくてはならなかった人たちがいて、その人たちと自分の経験が同じものだとはもちろん思ってはいない。どんなに離れたくともそれが叶わない人たちがいることも、何があっても離れたくないとそこに居続ける人たちがいることも、災害のニュースを聞くたびに忘れてはいけないと胸に刻まれる。人と土地とのあいだには、それぞれに無数の関係性(もしくは非-関係性)があって、わたしたちは物理的にも感情的にも、それに大きく揺さぶられることがある。レベッカ・ソルニットは『迷うことについて』のなかで、カリフォルニア州ウィントゥ族の人々と土地との関係について、次のように書いている。

彼らは自分の体の部位を指すときに左右ではなく東西南北の方位をつかう。[…] 自分はまわりの世界との関係によってのみ存在していて、山や太陽や空なしには自分もまた存在しない。[…] そんな言葉の世界で自我が迷うことはありえない。すくなくとも原野で迷子になる現代人のように方角を見失い、来た道ばかりか地平線や光や星空といった自分をとりまくものとの関係まで忘れてしまうことはない。

わたしにとっては、この町に越してきたいちばんの理由が自分の喘息じゃなかったことを知ったことが大きかった。これまでは、「もしわたしが喘息じゃなかったら」とか、「あのままニュータウンで暮らしていたら」とか、過去にばかり、自分にばかり意識が向いていた。それが父の話を聞いて以来、どこか自分を越えた大きなはたらきのようなものを感じるようになったのだ。いいとか悪いとかではなく、わたしがここにいることは、自分ひとりではとうてい担えない、複雑なものごとの結果なんだ、とにかくわたしは、ここにいるんだ――。そんなふうに考えていくうちに、言葉がぐるりと回転するような感覚があった。「わたしはなんでここにいるんだろう?」から、「わたしがいると、ここはどんな場所になる?」へ。過去をまなざす立ち位置が変わったことで、内側に向けられていた矢印が方位磁石みたいにくるっと外を向きはじめた。

*

先日、あたらしく出会った友人と地元の居酒屋で飲む機会があった。わたしよりひと回りほど年下のRちゃんは、東京からこちらに移住してきたばかりだ。デザイナー兼ショップ店長という仕事を通じて、どんどんこの町を開拓しはじめている。Rちゃんが最近よく行くんです、と連れて行ってくれたその居酒屋は、わたしが通っていた小学校の目の前にあった。そんな場所でのんびりビールを飲んでいると、たちまちいろんな記憶が蘇ってきて、わたしはついつい饒舌になってしまう。いつもだったら、支配的な先生に怯えていた日々のことや、小学校へと続くあの階段を登るのがいかにつらかったか、などとネガティブな話題ばかり振りまきがちなのに、その日はむしろ楽しい思い出ばかりが口をついて出た。

「あのね、いまは埋め立てられてしまったあの海岸では、しょっちゅう磯遊びをしたんだよ。普段着のままズボンの裾をまくって、少し海に入るとバフンウニがあちこちに見つかるの。手のひらで殻をかしゃっと割って、海の水で洗いながら中身をつるりと口のなかに流し込む。おいしかったのかな? わからないけど、とにかく楽しかった。岩にたくさん張り付いたカメノテも、あれ、食べられるんだよ。金属のヘラかなんかで無理やり剥がして、どんどんバケツに入れていく。それから近所の子どもの家に戻って、鍋でぐらぐら塩茹でして食べるの――」

磯浜の隣には、かつて市営プールがあった。とっくに閉鎖されたいまでも、壁に「市営プール」というはげた文字が残っている。海に入ったあとにプールに行くこともあれば、プールに入ったあとに磯遊びをしたこともあった。でもプールでのいちばんの思い出は、出てきたあとでおでんを食べたこと。プールの近くにあった駄菓子屋は、子どもたちから「おかっちゃん」と呼ばれていて、夏だけは店先でおでんを売っていた。当時はいまよりも気温は低くて、長いことプールに浸かっていると体は芯まで冷えてしまう。水から上がった後のだるい体に、熱々のおでんは何よりのごちそうだった。

「こう、四角く区切られたおでん鍋にね、いろんな具が浸かっていて、"これとこれとこれ!"と指をさしながら注文するの。じゃがいもにウィンナー、大根、こんにゃく。それでもぜんぶで100円とかそのくらい。スーパーの袋詰めするようなところにある、ふつうの小さいビニール袋に入れてもらってね。つけてくれた竹串で、うっかり突いて袋に穴があいたりすると、熱い汁がぴゃーっとこぼれて、みんなで"あちちち!!"なんて騒いだりしたんだよ」

おかっちゃんは、その呼び名から受ける印象にそぐわず、気難しそうなおばちゃんが営んでいて、なんとなくいつも怒っているような調子で子どもたちに接していた記憶がある。誰に対してもそうらしく、知り合いの子であっても、よそから来たわたしであっても、変わらずに不機嫌に接してくれるのがなんだかうれしかった。何度通っても距離は縮まらず、いつもどきどきしながら、おでんだねを指差していたけれど。それでも、「おかっちゃん」と口にするたびに、この町と少しだけ親しくなれたような、こそばゆい、照れくさい感じがあった。

ところで、浅草で育ったRちゃんは、かつては「神輿を担ぐ側」だったらしい。わたしと同じくお寺付属の幼稚園に通い、地元の伝統文化にどっぷり浸かりながら育った。それがいま、この小さな海の町で暮らすようになり、この夏はじめて体験する祭りでは、担当地区に当たっているという。しかも彼女が暮らしている住居兼職場は、わたしの母の生徒であり、わたしにとっては幼馴染のように育った姉妹の、かつての実家だった場所だった。呉服店を営んでいた彼女たちの実家で、わたしは七五三の着物も、成人式の着物も仕立ててもらったのだった。

大昔、母にしがみつき、泣きながら通った小学校の目の前にある居酒屋で、Rちゃんおすすめのメニューをつつきながら、わたしは過去と現在が交錯するような不思議な感覚を覚えていた。嵐が近い蒸し暑い夜で、わたしたちはほんのり酔っ払いながら、ビニール傘を盾のように構えて港にあるバス停に向かった。これからわたしは終バスで駅に向かい、東京に戻る。彼女はそのまま歩いて、すぐ近くの自宅へ。なんだかものすごく歳をとったような気持ちがして、でもそれこそがわたしがずっと求めていたことなのだと思った。誰もいないバスの窓から、よく見知った通りを眺めながら、はじめてこの町を未来形で語れるような気がしていた。

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