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2023.09.11更新

だめをだいじょぶにしていく日々だよ

きくちゆみこ

この連載では、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、時に疑い、打ちのめされながら、いつも言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録を残していけたらと思っている。「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察を。たとえばそれは、「だめ」が「だいじょうぶ」に移り変わるまでの道のりでもある。毎月2回、のんびりおつきあいいただけたらうれしいです。


第10回「熱の世界」

「もう一度あなたとぶつかりたい」。階段を早足で降りていく主人公の肩越しに女が声をかける。「蟻にはなりたくないのよ」。

自動操縦でもされてるみたいに、わたしたち毎日あくせくと触覚を振って動き回ってる。人間らしいものなんて何ひとつない。止まれ、進め、そこまで歩け、あそこへ車で。行動のすべてがただ生存のため。礼儀正しさだけにのっとって、『お釣りになります』、『ビニールと紙袋どちらにします?』、『ケチャップをおつけしますか?』なんて。ストローなんて要らないのよ。わたしが欲しいのは、ホントウに人間的な瞬間、それなの。わたしはきちんとあなたを見たい。あなたにも、わたしを見てほしい。あきらめたくないの。蟻にはなりたくないのよ――。

これはリチャード・リンクレイター監督の実験的なアニメーション映画『ウェイキング・ライフ』からのワンシーン。主人公の若い男は、映画のなかで何度も目覚めながらも、夢と現実の境目がわからずに街をさまよい歩いている。通りで、講堂で、バーで、さまざまな人々が彼に語りかけ、自分の考えを語っては通り過ぎていく。個の進化について、自由意志について、人間の本質について、はたまた言語における霊的な力スピリチュアル・コミュニオンについて。たんたんと、熱心に、そして時に怒りすらこめながら語られるそれらの「哲学談義」を、男は口も開かずただ静かに聞いているだけ。

でもある日、地下鉄へと続く階段の途中、彼は赤毛の女と鉢合わせになる。「エクスキューズ・ミー」と機械的に謝り、そのまま階段を駆け降りようとする男を呼び止め、彼女はこんなことを言ったのだった。ちょっと待って、もう一度あなたとぶつかりたいの、と。

*

わたしだってそうだ。わたしだってあなたとぶつかりたい。たとえば調子のいい日には、「この人、わたしのこと見ていい気分になったりしないかな」、なんて顔をしながらうろうろ街を歩いている。まるで行き交うすべての人が待ち合わせの相手でもあるかのように。「ひさしぶり!」と手と手を合わせて再会をよろこぶ、泡がはじけるような瞬間。ビールジョッキをガチンとぶつけ合うときの、とびきりの笑顔。そんな光景を頭のなかで何度も思い描きながら、それでもあっという間に通り過ぎてしまう、誰でも、いつでも。

一方、死ぬほど落ち込んでゾンビのようにあたりを徘徊するだけの日だってある。思うように文章が書けなくて、ぺしゃんこの気持ちでパソコンを抱えてマンションにたどり着いた夜、エレベーターに同乗してきた隣人に会釈すらできなかった。「ふん、わたしだってこのあいだ、郵便受けの前で挨拶した人に無視されちゃったし」なんて、無縁の記憶で罪悪感をチャラにして。そんなことをくり返し、苦い思いを積み重ねながら、わたしたちは互いにやさしくすることを忘れてしまう。それ以前に、他者に関心を持つことを。

*

朝起きて、今日もオンの脇の下に体温計をつっこむ。お盆があけて、発熱続きだったオンもようやく元気になり夏休み保育へ、と思ったところでまた熱が上がってしまった。あわてて小児科に連れていくと、ふたたび細菌性の風邪。今回ばかりは、と観念してオレンジ色の苦い薬をヨーグルトと蜂蜜に混ぜて飲ませる。「う~っ、このちょっと苦いのがいいんだよね!」と強がるオンがけなげだった。

パンデミックを経験したわたしたちは、「体温が上がる」ことを極度におそれ、店に入ろうとすればほとんどピストルみたいな体温計をおでこに突きつけられてきた。決して誰かに触れてはならず、言葉を交わすことすらためらわれ、ただ数値化された体温ばかりをさらし続けたあの特異な日々の記憶は、だんだんと薄れつつはあるけれど。

むかし、理科の授業で「恒温動物」について習ったとき、すべての生き物が一定の体温を保っているわけではないと知って驚いた。極限の環境下で、かちこちに冷たくなったまま、それでも生命を失わずにいられる生き物がいるということに。そして自分が、生まれた時からこの体温を維持し続けられていることの不思議を思った。寒いところにいても、暑いところにいても、わたしをほとんど一定にあたため続ける、この熱はいったいどこからくるんだろうと。

ルドルフ・シュタイナーは、人間には五感どころか十二の感覚が備わっていると考えていた。「触覚感覚=わたしの境界を知る感覚」からはじまり、「自我感覚=他者の存在を認識する感覚」へとたどり着くこの「十二感覚」は、人が地上に生まれ、人間になるまでの成長過程を示しているとも言われている。そのうちのひとつ「熱感覚」は、順番的にはちょうど中程に位置しており、文字通り「熱の世界」を知るための感覚だという。それは熱い・冷たい、といった物理的な温度にとどまらず、「あの人情熱的だね!」とか「ちょっと冷たくされちゃったな」など、「人の心」の状態についても感じるものであるらしい。熱は通常、温度が高い方から低い方へと、常に流れのなかで存在している。だから熱感覚とは、わたしと世界、わたしと他者のあいだに流れている熱を知覚する感覚とも言えるのだろう。あたたかさは自分という枠を超え、外へと広がり人を引き寄せる。一方で冷たさは人をきゅっと萎縮させ、対象から引き離す。わたしたちのなかに熱があるのは、他者や世界に関心を持っているあかしであり、かつて誰かにそのような熱を向けてもらったというしるしでもあるのかもしれない。

*

外へと広がり、他者に関心を持つこと。熱をもって誰かと向き合うこと。それでも人生は映画のようにはいかない。交差点で、駅構内で、人と人とが集まるありとあらゆる空間のなかで。わたしがあなたとぶつかると、思わぬ傷を受けることがある。女性をターゲットに突進してくる「ぶつかりおじさん」の話題はSNSでもしょっちゅう目にするし、わたし自身も先日似たような経験をしたばかりだ。平日の早い午後、がら空きの電車に座っていると、中年男性が隣にどかっと腰を降ろし大声で暴言を吐いてきた。わたしが足元に置いていた荷物が目障りだったようで、ひとしきり怒鳴ったあとすぐにどこかへ行ってしまった。

物理的な損傷は受けていない。それでもふだんわたしの境界や尊厳を守っている覆いみたいなものがふいに破られた気持ちがして、そんなときには相手に関心を持つどころか、世界中すべての人との交流を断ちたくなってしまう。18歳でウォルト・ホイットマンの「大道の歌」に出会って以来、心のなかであたため続けてきた「道ゆくすべてのひとを好きになりたい」という無防備でナイーヴな願望。それが歳を重ねるごとにあきらめに変わっていくことに、心地よささえ覚えはじめていた。

こんな経験をしたこともあった。

その日、わたしは品川駅高輪口のタクシー乗り場にいた。オンがまだ2歳だったころのこと。松樹の実家である大分からの帰りで、わたしの両親も一緒だった。わたしたちは大荷物に囲まれながらタクシーを待っていた。いざ列の先頭になったとき、わたしたちはもたついた。オンを抱き上げ、ベビーカーを畳み、誰が助手席に座り、どのように荷物を詰め込むのか。それぞれが頭のなかで組み立てていたパズルがうまく噛み合わないうちに、タクシーが到着し、ドアが開いた。

「おい!! なにもたついてんだよお前ら」。その声はすぐ後ろにいた松樹たちを越え、まっすぐわたしに飛んできた。「ちんたらすんなよ、早く行けよ!!」 スーツ姿の長身の男性が、その威圧的な声にそぐわない冷めた目でこちらを睨んでいる。男はわたしの方へずいっと身を乗り出してきた。シャツの下にふくれた腹を、高級そうなベルトが無理やり支えている、それに気づくか気づかないうちに、わたしは顔をあげて男に怒鳴り返していた。

「なんだよその言い方は……! だったらあんたが先に行けよ!」 喉はふるえていたけれど、体の奥に声がしっかり根を張っているのがわかった。お腹のなかで炎が一瞬で燃え上がり、そのごうごう燃えたぎる音が肺を通って声になっている。そんな感じだった。「ほら、行きたいんなら行けよ、行け、行け――!!!」

わたしの返答を聞いた男が、どんな顔をしたのかはもう思い出すことができない。男はわたしたちを勢いよく追い越すと、唾を吐き捨ててタクシーに乗り込んだ。次のタクシーは、まばたきのうちにやってきた。わたしたちはトランクにベビーカーと荷物を詰め込み、ぎゅうぎゅうになりながら全員で乗車した。

「お荷物、大変でしたね。ご旅行だったんですか?」 ハンドルを握る女性の運転手は、明るい声で話しかけてきた。ミラー越しに大きな笑顔が見える。「そうなんですよ、大分県のね、国東半島ってご存知かしら――?」 母と運転手のやりとりを聞きながら、わたしはオンを膝の上に抱えて窓の外を見つめていた。先ほどの経験とのあまりのギャップに、次々と涙があふれてくる。男がタクシーに乗り込んだとき、わたしは手すりから身を乗り出し、指を立てて車内にいる男を呪った。「XXXX!」 ひさしぶりの罵り言葉は、けっきょくリアウィンドウにぶつかってこちらに跳ね返ってきた。これまで燃えていた炎が一気に引いて、背筋にぶるっと冷たいものが走るのがわかった。

いまごろあの男は、ひとり飛び乗ったタクシーのなかで何を考えているんだろう。ああ、自分は嫌なやつだな、あんなことを言うつもりじゃなかったのにと、振り返ったりするんだろうか。いまのわたしがそうしているみたいに。それともただ怒りに身を任せ、運転手にも同じように横暴な態度をとっているのか。そんな態度を受け止める羽目になった運転手は、彼を降ろしたあとで何を考えるだろう? 次に乗せた客に、それが影響したりしないだろうか?

信号待ちの交差点で、たくさんの人が目の前を通り過ぎていく。東京に戻ってきたんだな、と思った。国東半島では、海と山と空ばかりが目に入ってきて、人とぶつかることなどほとんどありえないように思えたけれど。でも、そんなことはない。人がいるところなら、いたるところで衝突は起きている。現にわたしだって、松樹の地元の寿司屋に行ったとき、おかみさんに「ふたり目は男の子を産まんとな」と言われて喉元まで出かかった怒りを飲み込んだんじゃなかったか。

人に対する反感の気持ちは、いったいいつ生まれるんだろう? 誰かに対して、敵対的にふるまうその心は? 膝の上にオンの重さを感じながら考える。日を追うごとにオンは体重を増し、語彙も爆発的に増えていた。意図的であれ、無意識であれ、人の心をえぐるような言葉は、いったいどこでつくられるんだろう? 誰かを見下し、恫喝するような物言いを臆せずにできるようになる、そのひとのはじめての瞬間はどこにあったのか。

あのときタクシー乗り場で、わたしは相手を無視してかわすことも、愛想笑いでいなすこともできたはずだった。人混みで起きるたいていの衝突と同じように。フェミサイドのニュースを聞くたびに、自分の尊厳をうしなわずに自分を守る方法がどれほどあるだろうと考える。あのときとはまたちがう冷たさが背中をぞっと走るのを感じる。それでもあの日、わたしはあのように反撃せずにはいられなかった。そばに家族がいることで、気が大きくなっていたのかもしれない。でもわたしのなかには、同じように強い言葉を投げつけ、他者を呪いたいというつよい衝動が確かにあったのだ。その衝動はいったいどこから来たんだろう? 男もわたしも、なぜあの日あの場所で、わざわざ互いをののしらなくてはならなかったのか。それはわたしにとっても、男にとっても、相手だけでなく、むしろ自分への尊厳をうしなわせるような行為だったはずなのに。あの日以来、そんな疑問が頭から離れないままここにいる。

*

映画『ウェイキング・ライフ』に戻ろう。赤毛の女と向き合った主人公は、瞳に光を取り戻したように見える。誰といても上の空だった彼はようやく自分の意見を口にする。僕も蟻にはなりたくない、ぶつかってくれて救われたよ、と。

それってD・H・ローレンスが言ってたことなのかもしれない。たとえばふたりの人間が道で出会うとしよう。彼らはただ目をそらして通り過ぎるかわりに、ローレンスが言うところの『魂の対決』みたいなものを受け入れることにするんだ。つまりそれは、僕たちみんなの心のなかにある、神々を解き放つということ。勇敢で無鉄砲な神々を――。

引用元とされているD・H・ローレンスの『アメリカ古典文学研究』を開いてみる。ローレンスはフェニモア・クーパーの作品を論じる章のなかで、アメリカ人は民主主義や自由といった理想主義の「ピン」に留められて、結局は身動きが取れなくなっていると揶揄的に語っている。確かにそうなんだろう。頭ではすべて理解したつもりになって、それでも目の前の相手にどのように接してよいのかわからなくなる経験なら、わたしも何度もしたことがあった。「本当の生きた人間」として誰かに出会いたいならば、理想や理念といった見せかけの平等のピンを抜き取り、自分と相手のなかにある、それぞれの神々をさらけ出さなくてはならない――。それでもいまを生きるわたしには、ローレンス自身が社会の側から与えられてきたはずの特権的なものについては無頓着であるようにも感じられ、だから章を締めくくる熱っぽい言葉にも、どこか皮肉めいたものを感じてしまうのだった。

I am I. Here am I. Where are you ?  Ah, there you are! Now, damn the consequences, we have met. (僕は僕。ここにいる。君はどこだ? ああ、そこか! さあ、会ったぞ、結果なんてどうでもいい。)/大西直樹訳

人生において、「もう一度」はほとんどの場合やってこない。胸くその悪い経験は胸くその悪いまま終わるし、傷つけ合った相手ととことん向き合えるような余裕のある社会にも生きていない。時に「結果なんてどうでもいい」と思えるほどに。あのときタクシー乗り場で解き放たれたのは、神々というよりもむしろモンスターのようなものだった。わたしなかの神と、あなたのなかの神との戦い。こうしたことは歴史上いくらでもくり返されてきたのではなかったか。わかり合えない、わかり合おうともしない相手に無益な攻撃をしかけることが「人間的」な邂逅なのだとしたら。蟻のように下を向いたまま、目をそらし、相手を無難にやり過ごすより他ないのかもしれない。

それでも、同じくリンクレイターが監督した映画『ビフォアサンライズ』のなかで、ジュリー・デルピー演じるセリーヌはこんなことを言っている。それはロマンティックな夜のウィーンの街角で、彼女をうっとりと見つめるジェシー(イーサン・ホーク)に向けられた言葉ではあったけれど、必ずしも親密な相手だけを想定していたわけではないと思う。

もし神が存在するなら、それは人の心の中じゃなくて人と人との間のわずかな空間にいる。この世に魔法があるなら、それは人が理解し合おうとする力のこと。

人と人とのあいだにあるわずかな空間。そのために必要なのは、相手との過ごす時間の長さや関係の深さだけではない。それはむしろ、「いまここに誰かといる」という単純な事実にただ気づくことなのではないか。そこにいるふたりは、すべてをむき出しにする必要はなく、またそれぞれの属性も無視されることなく尊重される。わたしはいまのわたしのままで、あなたはいまのあなたのままで。ただ、そこにいることのむずかしさ。それは独りよがりな願望を抱きながら街をうろうろするのでもなく、顔と顔を突き合わせて哲学談義にふけることでもない。あなたが目の前にいるときのその感じ、ちがう体、ちがう心、そしてちがう過去ストーリーを持つふたりのあいだに生じるもの、ただそれに気づくことが、ここに神なるものを――その言葉がしっくりこなければ、熱を――呼び起こすのかもしれない。そしてここでいう過去ストーリーとは、目に見えるもの、言葉にできるものを支えている、目には見えない、言葉にはできないもののことなのだと思う。

では、もう二度と会うこともない、会いたいとも思えない、かつて手ひどくぶつかった人たちとのあいだには何があるんだろう。彼らとわたしを分つ永遠とも思える時間、無限の距離。そのあいだにも、神が、熱が宿ることはあるんだろうか?

その広漠とした時空間を満たすような魔法の言葉は、きっと簡単には見つからない。それでもわたしはこうして記憶のなかで、たぶん何度も出会い直すのだろう。あのときわたしは何を言い、何をすればよかったのか。目に見えず、言葉にもできない領域で、わたしは何度も問いかけるだろう。それは相手を不用意に受け入れる、ということではない。むしろそれは、かつてびりびりに引き裂かれた自分の覆いを癒し、世界への関心を取り戻すためにある。そして次にこの道をやってくるはずの、また別の誰かと出会うために。そのうちにいつか、かつて冷たく突き放された相手とのあいだにも、熱を取り戻せる日だってくるかもしれない。会わぬままに、過去ストーリーのどこかで。

主人公の返答を聞いた赤毛の女は、ひとこと満足げにこう答えた。それはローレンスの引用を受けたものだったけれど、少しも皮肉には聞こえなかった。

"Then it’s like we have met." 「これがわたしたちの出会いなのね」。

 

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