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2023.05.08更新

だめをだいじょぶにしていく日々だよ

きくちゆみこ

この連載では、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、時に疑い、打ちのめされながら、いつも言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録を残していけたらと思っている。「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察を。たとえばそれは、「だめ」が「だいじょうぶ」に移り変わるまでの道のりでもある。毎月2回、のんびりおつきあいいただけたらうれしいです。


第1回「大地でしっかり」

土曜日の遅い朝、上下にはげしく揺れるベッドの上で目を覚ました。オンがわたしの真横で腕を振り上げているのが見える。どしんどしんと足を踏み鳴らし、園で習った詩を唱えている。

光のなかから生まれてきました
きよらかな天の高みから
この地上に降りてきました
大地でしっかり生きるため
大地でしっかり生きるため……

それいいね、もう一回聞かせてよ、と伝える間もなく、オンは自分のベッドに飛び移り、今度はそちらとこちらをぴょんぴょん行き来しはじめた。そのバウンスに合わせて転がりそうになりながら、わたしはまた眠りに引き戻されてしまう。

夢のなかで、わたしはとあるアメリカ人映画監督と、彼の作品の常連である中年ミュージシャンの撮影を任されていた。インディペンデント映画好きなら絶対に知っているようなふたり。例にもれずわたしも高校時代からファンだったので、緊張をなだめるためにずいぶん前からあれやこれやと準備していた。それなのにいま、わたしの手のなかにあるのは二十年も前に中古で買ったみすぼらしいミノルタの一眼レフで、それは部品のいくつかを失ったまま、押し入れのなかで眠っているはずだった。シャッターは切れるし、自動でフィルムが巻き取られる音もする。それでも不安でたまらなくて、そばにいた松樹に助けを仰いだ。ねえこれちゃんと現像できると思う? 他にカメラ持ってきてないの? さっき編集者にこんな機会二度とないんでって釘を刺されちゃったよ、っていうかなんで撮るのがわたしなの――? ああ、まただ、不安が怒りに変わるサインだ、というタイミングで松樹がカメラに目をやりながら言った。「だいじょうぶ、たいていのことは失敗しちゃうものなんだよ」。

現実世界では松樹はもう仕事に出かけていて、変わりにオンがわたしに話しかけている。「きっちゃん起きて! 起きるっていうのは、ちゃんと立ち上がるってことだよ!」でもわたしは夢のなかのできごとですでに疲労困憊、ぜんぜん起き上がれる気がしない。水平のままぼんやりしているわたしの目に、オンは巨人のようにうつる。両手を下方で大きく開き、両足で地面を踏み締める。大地でしっかり、大地でしっかり。

オンと暮らすようになってから、「だ」という音につよく惹かれるようになった。たとえばそれは、抱っこの「だ」、だいじょうぶだよの「だ」、大事だよ、だいすきだよ、抱きしめてあげるの「だ」、そして歩けるようになったオンが大地をどたばたと駆け回る、だ、だ、だ、だ、だ、だ。

「だ」を構成する子音のDは、音声学的には有声歯茎破裂音と呼ばれている。まず舌の先を上あごの歯茎部分にくっつけて空気を溜める。ふたたび舌先を離し、空気の放出とともに喉を震わせて音を出す。これに母音のAがつくと、日本語の「だ」になる。こんなふうに書くとずいぶん複雑な作業に思えるけれど、わたしたちはこれをほぼ無意識でやっている。

オーストリアの哲学者・神秘思想家で、ヴァルドルフ教育(オンの園も取り入れている)の創始者であるルドルフ・シュタイナーは、子音のDは「受肉の音」だと考えていたらしい。地上に降りてきた存在があたらしくからだのなかに入るという、どこか決定的な音なんだと。確かにそれは、お腹のなかでしばらく一緒に過ごしてきた人が、外の世界に出てきたとたん、圧倒的に別の存在として目の前にあらわれたときの衝撃ともつながっているような気がする。はじめて顔を合わせた瞬間、胸のうちに広がる問い:「あなたは、だれ?」。でもそれはたちまちのうちに「だいすきだよ!」に変化したのだった。

舌を前歯の付け根にぺったりくっつけて感じる口腔内のあたたかさ、楕円の口で吐き出す空気とともに広がるあかるさ。だ、だ、だ、だ、だ、だ(あなたも一緒にやってみて)。それはいまだに慣れることのない、慣れる隙なんて与えないほどにめまぐるしく成長・変化していく小さい人と向き合い続ける毎日の気分にぴったりの音に思えた(というか、そうしたケオティックな一日一日を、なんとかくぐり抜けていくために不可欠な)。

それでも、なんとも不思議な、そしてまた厄介なことに、こんなふうに温かみとあかるさを孕んだ音は、自分に向けられるやいなや暗くて重たいものに変わってしまう。実のところ、わたしはその重たい響きのほうにすっかり馴染んで生きてきたのだ:だめだよ、できない、わたしにはできないよ、だってわたしは怠惰だし、だらしないし、ああ、わたしってなんてだめなやつなんだろう――!

だ・め、という、人の心をぐいぐい地面に押し付けるような言葉に打たれて、わたしはいつも水平のままぼんやり宙を仰いでいる。ずっとそんな気持ちでいる。それは長い時間をかけて心の奥でひっそり成長を続けていた、自己否定という名の小さなわたしの叫び声でもあった。

いま、わたしのすぐそばで軽快に飛び跳ねている誰かさんには毎日のように言いたくなる言葉を、自分自身に向けることはどうしてこんなにむずかしいんだろう? わたしの目の前にいる、別のからだに入っているあなたには、一点のくもりもなく、びっくりするくらいの確信を持って言えるそれらの言葉を、わたしがわたしに言ってあげることは。

わたしは手のひらをベッドに押し付け、重たいからだを引き上げる。分厚い靴下に包まれた足を床におろし、気が遠くなるほどの時間をかけて立ち上がる。まるでそれが世界ではじめてのことみたいに。大地でしっかり、大地でしっかり。まずはここからはじめてみよう。

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