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2023.05.22更新

だめをだいじょぶにしていく日々だよ

きくちゆみこ

この連載では、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、時に疑い、打ちのめされながら、いつも言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録を残していけたらと思っている。「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察を。たとえばそれは、「だめ」が「だいじょうぶ」に移り変わるまでの道のりでもある。毎月2回、のんびりおつきあいいただけたらうれしいです。


第2回「自立、もしくは複数の顔との出会い」

自立、という名前の男の子と暮らしていたことがあった。もう10年以上も前のこと。その頃わたしは留学生としてロサンゼルス郊外の街に住んでいて、彼とは数少ない日本人の友人を通じて出会った。その日は彼の20歳の誕生日で、老舗のチャイニーズレストランに十名ほどが集まり、ピンクのクロスがかかった大きな丸テーブルを囲んで食事をした。豪快に配られる食器や雀牌みたいに重い中国箸がカチャカチャたてる音がにぎやかで、誰もが大声で話していた。その店は彼がまだ「家族」と暮らしていた頃に通っていた思い出の場所だった。ラミネート加工された巨大なメニュー表から聞き慣れない名前の料理をつぎつぎに注文していく彼のことを、わたしはいいなと思って見つめていた。すると彼はわたしに顔を寄せ、「タダ飯が食える機会だよ、遠慮しないで!」と耳打ちしてきたのだった。180種類を超える膨大なメニューのなかからわたしが選んだのは、146番の干煸四季豆 – Sauteed String Bean(番号までわかるのはわたしの記憶力ではなくインターネットのおかげだ。都市名と店名を入れて画像検索すると一発でメニューがスクリーンに現れる)。「いんげんの油炒めが食べたい」と答えたわたしに、「だからきみはそんなに小さいんだよ!」と彼は首を振りながら笑った。たしかに彼は身長が180cm以上もあったけれど、でもわたしよりずっと痩せていて、いつもお腹を空かせていた。

初夏のこの時期、駅からマンションまで続くまっすぐな通りの両脇には、一斉にスタージャスミンが咲きはじめる。大きくも小さくもない、おもちゃの風車みたいに素朴な白い花は、人を酔わせるほどつよい香気を放っている。大雨の前日、ひさしぶりに空気に湿度を感じた夜があった。わたしは強烈な花の香りにつつまれながら、かつて訪れたラスベガスの喧騒を思い出していた。去年も、おととしも、オンが生まれたばかりのあの5月の夜もそうだった。湿度と夜とスタージャスミンの香りは、いつだってラスベガスなのだ。実際には、砂漠のど真ん中にあるあの街の平均湿度は20パーセント前後ときわめて乾燥している。それなのにどうしてだろう? 世界中から集まる観光客の熱気と大量に消費されるアルコール、それからショッピングモールや高級ホテルなんかに漂う、きつい香水のにおいが記憶を呼び起こすのかもしれない。

ラスベガスへはロサンゼルスから車で4時間半ほどで行ける。影をまったくつくらない砂漠の道を日中運転し続けるのはかなり堪えるから、いつも明け方前に出発した。まだ薄暗い空を背景に、ガス・ステーションの看板がぼんやり輝いている。つめたい給油機のハンドルをカチリと握ってレバーを固定し、自動で給油しているあいだにコーヒーとスナックを買いに行く。わたしはいつも道中に何かトラブルが起こるのではと危惧していて、だからカロリーの高いチョコレートバーをいくつか車内に常備するようにしていた。年式のいった中古車の旅。ラスベガスに行くのは、わたしにとっては留学生のぜいたくな気晴らしで、でも彼にとっては食い扶持(そしてカレッジの授業料)を稼ぐための手段だった。カジノならロサンゼルスにもあったのに彼がラスベガス行きを好んだのは、そこならエンターテイメントやゴージャスなホテル・ビュッフェに群がる人たちの陽気さ(わたしもそのひとりだ)に紛れて、自分の抱えている問題の深刻さと向き合わずにすんだからなのかもしれない。彼はギャンブル依存症だった。

フィリピン華僑出身の父親と、その実家で働いていたフィリピン人の母親のあいだに生まれた彼は、生後すぐに母親と引き離され、4歳になると親族一同とともにアメリカに渡った。その後子育てを放棄した父親の代わりに叔母夫婦の家に引き取られ、実際にはいとこである妹たちと一緒に育った。しかし高校卒業と同時に彼は家から追い出されてしまう。それいらい、単発の仕事を得ながら友人たちの実家を転々とするか、教会が運営するシェルターなどの施設を利用して暮らしていた。わたしと出会ったのは、彼がわたしの友人に新しくできた恋人の実家に滞在していた時期だった。恋人であるその男はわたしと同じカレッジの学生で、アニメオタクで気前はいいけれど(誕生日ディナーの代金をすべて支払った)、とにかく偉そうで、彼のことを明らかに下に見ているようだった。泊まる場所を提供する代わりに彼を自分の手下のように扱い、ギャングとのつながりがあることをほのめかしてもいた。食事のあと、みんなでパロス・ヴァーデスにある男の実家に行くことになり車で丘を上った。ロサンゼルスの高級住宅地はたいてい交通に不便な丘の上にある。暖炉の前でお酒を飲みながらしばらく談笑しているうちに、わたしはしだいに男の態度に耐えられなくなった。だから彼と一緒に自分の家に戻ることに決めた。家といっても、当時のわたしが住んでいたのはバスルームも共用のシェアハウスの小さな一室。でもこうして3年にわたる彼との共同生活がはじまったのだ。その後すぐに追い出され、しばらくモーテル暮らしになることはまだ想像もしていなかったけれど(アナハイムのディズニーランドのすぐそばの安モーテルで、わたしたちは路肩の縁石に座って毎晩無料で花火を見た。『フロリダ・プロジェクト』みたいな話だ)。

あなたはすぐにわたしの携帯電話の番号を記憶した、わたしのだけじゃない、すべての電話番号をあなたは記憶した、高校のクラスメイトたちの、いくつかのシェルターの、仕事をくれる可能性のあるショップやレストランの、いとこである妹たちの、あなたを追い出した叔母夫婦の、それから叔母が通っていた社交ダンス教室の番号まで、なぜなら、携帯電話に登録してもまたすぐに売るはめになるかもしれないから、番号さえ覚えていれば、今日を生き延びることができるかもしれないから。「ストリートワイズってやつだよ」とあなたは言った、でもそれから手に入れたプリペイド携帯の発信記録に残ったのは、わたしの番号ばかりだった。

毎晩、湯船につかりながらちびちび読んでいた『三体Ⅱ』の下巻があと少しで読み終わる。表紙がなんだか不気味で、そこらに置いておくとオンが「こわい本だねーっ」と避けるそぶりを見せるのでおかしい。SFなので当然なのだろうが、宇宙文明を舞台に数百年単位で時が移り変わるので、ただ読み進めているだけなのに自分がずいぶん歳をとったような気がしてくる。過酷な運命を背負うことになった主人公のひとり、羅輯(ルオ・ジー)が、ふと過去をふりかえる静かな場面が印象に残った。200年以上もかけてひとつの人生を送ることになった彼は、自分にはほんとうに子どもだった頃があるのだろうかと考える。ぼくはほんとうに中学や高校に通ったのだったか? ほんとうにあの場所に住んでいたのか? ほんとうに初恋をして、ほんとうにあの人と暮らしたことがあったのか。

「彼の人生は、ツキノワグマが畑でトウモロコシを一本とって脇にはさむたび、その前にとった一本を落としていくように、なにか手に入れると同時にべつのなにかを失くしていって、最後にはいくらも残っていないのだった」

遠くなった過去は足のつま先みたいだなと思う。いつもは分厚い靴下につつまれて(ささやかに冷えとりを続けているのだ)、ほとんどなきもののように毎日を過ごしている。そしてとつぜんやってくるのだ、小指をタンスの角にぶつける日が。ガツンと突き上げるあざやかな痛みが、拳をふり上げて叫ぶ、思い出せよ、思い出せ!! わたしは半泣きで悪態をつきながら、じんじん痺れる小指をさする。あの夜、丘をくだり、シェアハウスを目指して走らせた車の助手席にもたれて座る横顔、カーステレオに合わせて熱唱したSaosinの “Plays Pretty for Baby”、小腹が減って深夜に食べた、茹でただけのぼそぼその蕎麦:「sobaってはじめて食べるよ」、煙草で枯れたがらがらの声と節くれだった大きな手。わたしはどんな思いで彼を部屋に招いたんだっけ? 恋心なのか無責任な正義感なのか、それとも、出会う人すべてが等距離の顔見知りにしか思えなかった異国の地で、ただ誰かに、複数ではない、たったひとりの誰かに頼り、頼られたかったからなのか。わたしは来た道をふりかえる。落としたトウモロコシをひとつひとつ拾いあげ、腕いっぱいに抱えて立ちつくす。

彼が自分のチャイニーズ・ネームを知ったのは、21歳の誕生日を迎えた春のことだった。わたしは24歳になっていて、彼と出会って3つ目となった住所にある日手紙が届いたのだ。送り主は生き別れになった母親からで、消印はアラスカのアンカレッジだった。書類を持たない移民として介護の仕事についているという。お祝いの言葉、そして「ぜひ会いにきてほしい」という願いとともに、手紙には彼の中国名も併記されていた。「マイ・ディア・ベイビー、」それから漢字を使い慣れない人がゆっくり時間をかけて綴った、まっすぐな線と四角で構成された文字は、「自立」と読めた。「これっておれの名前ってこと? どういう意味?」。ひと足先に、というより、文字を目にした瞬間に意味を理解してしまったわたしは興奮していた。彼は自分につけられた英語名(それはベビーフードのブランド名から取られた、ファーストネームにするにはめずらしい名前だった)をまったく気にいっていなかったから、きっと喜ぶにちがいないと思ったのだ。「これはねえ、ええと、”to stand on your own feet” 自分の足で立つってことだよ! つまり “independent”ってこと。すごい、21歳(アメリカでの法定飲酒可能年齢で、一般的に「大人」と認められる特別な歳とされている)にぴったりだね!」。浮ついた声でそう言ったものの、わたしはすぐに口を閉じた。その頃のわたしたちは喧嘩ばかりしていて、その理由の大半がお金にまつわることだった。わたしは親からの仕送りに頼りながらふたりぶんの生活費を支払っていた。彼は本屋でのアルバイトで貯めた授業料を、ポーカーでスったばかりだった。わたしはたぶん、いつまでたっても親に頼らずには生きていけそうにない自分の不安やみじめさを、彼と暮らすことでごまかそうとしていたのかもしれない。この先も大人になることから逃げ続けたい、このまま一生誰かに依存して生きていきたいという自分の本心から目をそらすために。わたしたちはウロボロスの蛇みたいに互いを互いの必要として、どんどんその輪を閉じ続けていた。彼は手紙をぐしゃっと握ると、ソファに仰向けに倒れて言った。「That’s just too ironic, ベビーフードからいきなり自立ってさ」

昨年の年明けから、教員養成講座を受けるために横浜シュタイナー学園に通っている。先生を目指しているわけではないけれど、シュタイナー学校で実践されているさまざまな授業を実際に体験できるのがうれしい。算数や国語、水彩や音楽など、どの教科を受けていてもその根底には「人間とはいったいどういう存在なのか」という人智学的な問いと、それに基づく洞察がある。最初の頃に受けた授業で、0歳から1歳になるまでの赤ん坊に戻ってみようと、みんなで床に寝転んだことがあった。ガーっと音を立てながら机を動かして空間をつくり、よっこらせとからだを横たえる(大人になると、床に横になることもひと苦労なのだ)。寝返りの打てない赤ちゃんに見ることができるのは主に天井だけ。そこに親や親戚やお医者さんなんかがぼんやりと顔を出す。次にからだを起こし、四つ這いになる。自由に動くことはできるが、目に入るのは床や水平方向だけだ。「では、いよいよ立ち上がってみましょうか」と先生が言う。「感覚的な変化だけでなく、胸の内に広がる変化にも注目してみてください」。ヴァルドルフ教育では、こんなふうに人間のさまざまな発達段階を観察し、その時期に人がどんな衝動を抱え、何を必要とするのかに光を当てる。たとえば1歳ごろのテーマは「立つこと」(物理的な難しさを抱えている人であっても、その人のなかでの「まっすぐ」を希求することなのだと別の先生は言っていた)であり、ここで人ははじめて「自我」の萌芽を感じるが、それはまだかすかな予感にとどまっている。さらに大きな枠でとらえると、7歳までに「からだ」、14歳までに「こころ」が完成し、そして21歳までに「あたま」を自分なりに働かせられるようになって、ようやく精神的な意味での「立つこと=自立」への準備ができる。だからそれまでは親や教師といった大人たちが、子どもが本質的に求めている環境を用意し、覆いとなって見守ることが大切なのだ。

でも、と膝をつきながらわたしは考える。そうした環境が得られなかった人はどうしたらいいんだろう? 幼いころから心を過度に揺さぶられる経験を持ったり、自分を守るために小さなうちから知恵を絞って生きてこなくてはならなかった人は? 今はちゃんと立っているように見えても、いつ崩れ落ちてしまうかもわからない、目には見えない無数の傷を抱えている人たちはどうしたらいい?

そんなことを1年以上経ったあともぐずぐず考え続けていたら、つい最近友人からこんな話を聞いた。「わたしね、これまでずっと自立しなきゃしなきゃって思いながら、がんばって仕事して、でもつらくて、恋人にばかり依存してしまっていた。でもこのあいだ取材の際に、教えてもらったことがあるんだ。自立するっていうのは、働いて自活するってことじゃないんだって。自立するっていうのは、大人になるっていうのは、依存できる先をいくつも見つけることができるってことなんだって」。調べてみると、それはもともと熊谷晋一郎さんの言葉であるようだった。「自立とは依存先を増やすこと」。障害を持ちながら小児科医として活躍し、当事者研究に従事する熊谷さんは、自らの経験をふまえながらそのように言葉を定義しなおした。それはつまり、いざというときに頼ることができ、また頼ってもらえるような関係性を複数の人たちと結んでいくということなのだろう。そしてそれは、どんな人にも当てはまる、普遍的なことなのだと熊谷さんは語っていた。

昨年の1月、淡いピンク色をした覆いのようなあの教室で、もんもんとしながら立ち上がったわたしの目に入ってきたのは、人の顔だった。わたしではない、わたしとはちがう、ともに学んでいる人たちのいくつもの顔、顔、顔。四つ這いをしていたときにも他者の気配はあった。でもそれとはぜんぜんちがう、どこか圧倒的な輝きを持って、人の顔がわたしの心に飛び込んできたのだ。21歳以降の大人にとって、「立つこと=自立」とは、個人としての「自我」の、つまり「わたしはわたしである」という確固たる認識の誕生なのだとシュタイナーは言う。それは同時に、わたしではない「複数のあなた」の存在に気づき、出会っていくという長い道のりのはじまりでもある。

これを書きながら、あなたも今のわたしと同じような場所に立っているといいなと思う。わたしもまだ、複数の人と関係を築くのはぜんぜん得意じゃないけれど。でもどうか、電話番号だけじゃなく、たくさんの顔に囲まれていて。ほんとうに必要なときには、すぐに声をかけられるかもしれないから――。

きょろきょろと教室を見回すと、みんなも同じように頭を動かしているのが見えた。なんだか生まれ変わったような気がして、照れくさくて、まぶしくて、あらためまして、こんにちは、と軽く頭を下げながらみんなで小さく笑った。

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