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2023.06.05更新

だめをだいじょぶにしていく日々だよ

きくちゆみこ

この連載では、まるでそれがほとんど神さまか何かみたいに、愛し、頼り、信じ、救われ、時に疑い、打ちのめされながら、いつも言葉と一緒に生きてきたわたしの、なにかとさわがしい心の記録を残していけたらと思っている。「言葉とわたし」がどんなふうに変化してきたのか、もしくは変化していくのかの考察を。たとえばそれは、「だめ」が「だいじょうぶ」に移り変わるまでの道のりでもある。毎月2回、のんびりおつきあいいただけたらうれしいです。


第3回「ちゃんとひとりでみんなで一緒に」

「あげて、はこんで、おく。あげて、はこんで、おく」

重厚に響くピアノの隙間から先生の声がまっすぐに届く。わたしはそれに支えられてゆっくり静かに歩みを進める。

「足をつくときには、まるでそれがはじめてみたいに地面を感じて。ひとつひとつの歩みが、世界ではじめて起きることのように。だってあなたは、命をはこんでいるのだから。歩きながら、命をはこんでいるのだから」

品川駅は歩く人を眺めるのにうってつけの場所だと思う。たとえば港南口にあるブルーボトルコーヒーにはガラス張りのカウンター席があって、その真下に高輪口からつながる連絡通路が見わたせる。オフィス街へと向かう人たちは、みんな正面を向いたまま迷いなくこちらに歩いてくるから、「写真撮影をしないでください」という注意書きまで貼ってある。そうしたまっすぐな無防備さがどうか守られますようにと思いながら、それでもひとつの大きな生きものみたいな人の流れに目をうばわれてしまう。以前はそこで仕事をしていたこともあったけれど、いまのわたしの居場所は駅構内の、加賀棒茶をあつかう小さな店のカウンター席だ。もともと茶葉の販売とテイクアウトがメインの店だから、飲みものがリーズナブルな値段で買える。それに注文ごとに淹れてくれるあつあつのお茶がとにかくおいしい。たまにおまけでちがう焙煎のお茶までつけてくれる。目の前には新幹線と特急指定席券の券売機があって、その先には新幹線乗り場があるから、どの時間でもたくさんの人たちが通り過ぎるようすがガラス越しに見える。

わたしがそこにいるのは、たいていがオンの迎えに行くまでの時間だ。ふだんは松樹が自転車で送り迎えをすることが多い(わたしは乗れないのだ)。でも仕事で都合がつかないこともあり、そんな日にはわたしが電車で迎えに行くことになる。オンと松樹以外ほとんどひとりで日々を過ごしているわたしには、いざ人に会うとなると「バッファ」の時間が必要だ。家から出たあと、しばらく人がにぎわう環境にまぎれておきたい。そうしたチューニングなしに人に会うと自分のペースがわからなくなり、相手が誰であろうとあとから必ず疲労困憊する。たとえそれが、園児が数名しかいない小さな園の、たった数分の送り迎えの時間でも。

焙じ茶を飲みながら、本を取り出してスピンを引き抜く。でもすぐに緊張におそわれて(くり返しになるけれど、これは子どもを園に迎えに行くだけの話)、けっきょくガラス越しの世界をぼーっと見つめるだけになる。「子育て・時間」と入れて検索すれば、その物理的な時間のなさが問題にされることが多く、事実それはその通りなのだけど、こうしてまったくひとりでいられる時間にも、というかほとんど24時間365日、心に入り込んでくる何かがある、だからいつもなんだか落ち着かない。それを愛だ、よろこびだと思えるときもあれば、侵食・消耗としか呼べないような日もあって、言葉にするのがむずかしい。そもそもこれは子どもに限らず、わたしではない誰か、というままならない存在と共にいること、それじたいにかかわる問題なのかもしれない、むずかしい。

そんなことを考えながら目の前を歩く人々を眺めていると、だんだん人の足が顔みたいに見えてくる。人の歩きかたには、たぶん顔と同じように表情があって、それは誰ひとりとして同じじゃない。すたすたと風をきって歩く人もいれば、スタンプみたいに地面を踏みしめる人もいる。つま先を外へ突き出すように、上へ下へと跳ねるように、それから降りたての雪の上でも歩くみたいに、そっとそっと足をおく人も。杖をついている人もいるし、車椅子を利用する人もいる。ベビーカーにすっぽりおさまって満足そうに眠る子どもも。人が自分をはこぶ、というそのごくさりげないやりかたにかけがえのなさまで加わって、思わず胸が打たれてしまう。これから新幹線に乗るのだろうか、ほかの場所よりグループが目につく。時間に遅れる!と早足で通り過ぎる家族も、親密そうに顔を寄せ合い歩くカップルも、おしゃべりに夢中で前も見ずにもくもくと進む3人組も、ひとりひとりちがう歩きかたで、それでもちゃんとひとかたまりで流れるようにわたしの前を通り過ぎていく。みんなで同じ船にでも乗っているみたいに。

オランダの科学者ホイヘンスは、壁に並んでかけられたふたつの振り子時計が正確に同じリズムで揺れていることを発見した。振動する複数の物体のあいだには、こうした相互作用がはたらいているのだと。この現象は「エントレインメント=引き込み現象」と呼ばれていて、人間にも同じ作用が起きることが報告されている。たとえば人が24時間のサイクルで生活するのも、地球の自転のリズムに「引き込まれ」ているからなのだそうだ。誰かと一緒に歩けるのもきっとこのためなんだろう、そしてたぶん、わたしの疲労困憊の理由も。

13年前は、わたしが駅を歩く人だった。ロサンゼルスの大学院を中退し、ほとんど逃げるみたいに帰国してきたばかりだった。そしてわたしには待ち人がいた。ふた回り年上で、ヨーロッパを転々としながら活動しているミュージシャン、90年代には日本でも仕事をしていたらしい。まあいろんな事情があって、だからこの先一緒にヨーロッパをめぐるのか、東京で暮らすのか、それともひとりでアメリカに戻って学業を続けるべきなのか、いろんなことが宙ぶらりんになったまま、わたしは品川駅の近くで借りぐらしをしていた。それで毎日、高輪口から港南口へとつづくあの長い連絡通路を、通勤者や観光客にまぎれてふらふらと往復しながら過ごしていたのだった。とめどなく歩くことで、未来のかすかな手ざわりをどうにか逃すまいとしていたのかもしれない。せわしなく行き交う人たちのなかからひとりを選び、後ろをついて歩くこともあった。そっと足取りを真似しながら、わたしが彼女だったらいまどんな気分だろう、これからどこへ行くんだろうとしばらく想像したりして。新幹線の改札口から数カ国語のアナウンスが流れてくる。その少し呪文めいたあかるい声が、まだ日本に戻りきれていない耳にやさしかった。

はじめて会ったのはベルリンだった。大学院の授業についていけず、どろどろの共依存関係からも抜け出せなくて、ああもうわたしはどこにも行けないんだと、空想の物語ばかりTumblrにつづって生き延びていた日々、わたしを見つけ、また別の道があるよと示してくれたのが彼だった。テーゲル空港からアパートメントまではタクシーをつかった。でもあの街ではとにかくずっと歩き回っていたと思う。カルチャーにくわしくアーティストの友人も多い彼は、わたしをいくつもの美術館やギャラリーに連れ出した。流行りのカフェに行き、湖に出かけ、公園を散歩し、植物園をさまよった。行きつけだという小さな本屋には猫がいて、「インク」という意味の名前がついていた。彼が店主と話し込んでいるあいだ、わたしはその猫の喉をなでて時間をつぶした。あんなにたくさんの場所をおとずれたのに、それらがどこにあったのかぜんぜん思い出せないのはなんでだろう? 猫の名前なら覚えているのに。彼の歩幅はあまりに大きく、わたしはいつも早足で後ろを歩きながら、息が上がっているのがばれませんように、と小さく祈っていた。

でもそれは歩いていたときだけじゃない、言語においても知識においても、あらゆる場面でそうだった。母語である英語と、長年暮らしていたために流暢なドイツ語、さまざまな引用とともに語られる議論に、わたしは必死でついていこうとした。象徴的なエピソードがある。ある夜、ライブを見に行った帰り道、わたしはこんなことを提案した。「ねえ、いまからわたしは目をつぶるから、あなたがわたしを導いてよ」。それでわたしはでこぼこした石畳の道を、彼の声と手だけを頼りにそろそろと歩きはじめたのだった。十代のころに「ビフォア・サンライズ」を観てしまったせいだろう、わたしは異国で見知らぬ人と歩くことにロマンティックな幻想を抱いたまま年を重ねていた(でもきっとわたしだけじゃないはず、そうだよね?)。耳慣れないサイレンの音、エスニックレストランからただよう独特のスパイスの香り、手の温もり。それでもわたしはすぐに恐怖にとらえられて目をひらいた。目をつぶっていた距離はたいして長くはなかったけれど、わたしはすでに大切なものをゆずり渡してしまったんだと思う。あの街で、わたしは自分のための地図を描くことができなかった。だから場所を覚えていないのだ。自分の足で歩かなくては、そこに足跡はのこらない。でも、そのときのわたしはまだそれに気づいていなくて、それから東京で一緒にいた日々も同じように過ぎていった。

春から集中的にオイリュトミーのレッスンを受けている。オイリュトミーはシュタイナーが考案した「動きの芸術」で、言語と音楽、それぞれを対象にしたものがある。言語のオイリュトミーでは、言葉を発するときに発声器官で生じる動きや、その感覚に注目する。そこで起きることを手足にまでひろげ、母音や子音といったそれぞれの音が持つエネルギーをからだ全体で響かせようとする。詩や短歌など、言葉のつらなりが生み出す流れやリズムなどをもとに地図のようなフォルムを描き、空間を動くこともある。言葉を発するときのあの感じ、そのとき心に生まれるもの、それらとからだが一緒になって動くときの心地よさ。ギリシャ語で「うつくしい調和のあるリズム」という名前がつけられている理由も、なんとなくわかる気がする。

オイリュトミーと出会ったことで、わたしは生まれてはじめて「かだらを動かしたい」と思えるようになった。というよりむしろそれは、「わたしはからだを動かしてよい」という自分への許しのようなものだった。「ああ、わたしはからだを動かしてもいいんだ!!」それは内側からわっとあふれ出したらもう止まらない、あまりにまぶしくあかるい衝動で、言葉ならわかる、言葉なら動ける、そんな確信と解放感に満ちていた。わたしは自分のからだを取り戻したような気がした。そしてこのからだは、わたしを超えて、外の世界にはたらきかけることもできる。言葉がそうであるように。

基本レッスンのひとつに、「三分割歩行」というのがある。歩行を「あげる、はこぶ、おく」という3つの要素にわけ、そのちがいを意識しながら歩く。まず右足を引いたポジションから、かかとを持ち上げ、つま先でごく軽く床をなぞるようにはこび、つま先からかかとへとゆっくりぴったり着地する。泉から水がぶわっと湧き出て、さーっと水が流れ、また地面に静かに吸い込まれていくというイメージ。「前に進むときには、少し目が覚める感覚がありますね。では後ろに進んでみるとどう? 一歩、一歩、眠りの世界に向かっている感じがするかもしれない。もしくは目には見えない領域へと――」

後ろへと歩みを進めながら、夜、眠る前にやっている「逆向き瞑想」のことを考える。およそ5分のあいだに今日一日のことを、現在から目覚めた瞬間まで逆向きにたどりながら思い出すという瞑想法。できるだけ感情に引きずられないように、写真のようにパッパッと場面を見る、丘の上から見下ろすみたいに、自分からはなれて。目をつぶり、眠ってしまわないように気をつけながら、わたしは一日をさかのぼる。丘の上に立とうとして、でもいつのまにか後ろ向きに歩いている。見えないまま歩くのはあぶない。さまざまな感情に揺さぶられながら、わたしはどんどん過去へと足を踏み入れていく。

――ねえ、わたしはいったいどれだけ時間を無駄にしちゃったんだろう? たいていのものごとは、年をとるほどに近づいてくるものなんだと思ってた。学ぶことも書くこともそう、ひとつ進めばちゃんとひとつふえる、それが宇宙の真理みたいに。でも時が経てば経つほどに、どんどん遠ざかっていくものだってあるのかもしれないね。もっとはやくに出会えていたら、あのころからはじめていれば――そんなふうに思うのは、ほんとうにやりたかったことを見つけられたしるしなのかもしれないけれど。あのころわたしは26歳で、自分だけの時間ならたくさんあった。そう、時間だけはたっぷりあったんだ、その前もそのずっと前も。ウサギとカメの寓話を思い出す。あのとき少しでも歩みを進めていたら、思い切りジャンプして距離を縮めていたら――「なれていたかもしれないわたし」が丘のてっぺんからわたしを見下ろしている。わたしはそこへとつづく足跡をさがしてあたりを見まわす。でもわたしはウサギでもカメでもなかった。幽霊みたいに、ただ連絡通路を行ったり来たりしていただけだった。

「はこぶとき、足が大地から解放されているのがわかる? そのわずかな瞬間は、わたしたちに託されている。前後左右どこへ行ってもいい。そこには自由があって、同時に責任がある」と先生が言う。わたしはあとでメモに残せるように、その言葉をあたまのなかでくり返しながらぎこちなく歩みを進める。目の前に、一緒にレッスンを受けている人たちの後ろ姿が見える。そのほとんどはわたしより上の世代の女性たちで、オイリュトミー歴何十年という大先輩たちばかりだ。仕事や子育てや介護など、おそらくそれぞれにちがった事情を抱えながら、その合間をぬうように続けてきたのだろう。そしていま、ようやくさまざまな役割から解放されて、同じグループの仲間として毎週稽古に通っている。彼女たちはわたしよりずっと動きが軽い。やわらかな優雅さをたたえて、堂々と、さっそうとフォルムを描く。ひとりで、みんなで。

たぶん大切なのは、これまで何歩歩いたのかでも、どれだけ距離を縮めたかでもないんだろう。ほんとうに大切なのは、わたしがいま、ちゃんとわたしのままで歩いているか、たぶんそれだけなのだ。どれだけ早いのかでも、どこを目指しているのかでもなく、いまのわたしが、ここで、どんなふうに歩いているのか。どんな過去を、どんな感情を、どんな希望を持ちながら、いまこの瞬間を歩いているのか。そのまわりには誰がいる? どうしたら一緒に歩いていける? 互いを互いに引き込みながら、それでもちゃんと、わたしとあなたで。三分割歩行は、なんだか人生のメタファーみたいだなとも思う。あげて、はこんで、おく。生まれて、生きて、死ぬ。でも生きているあいだは、命をはこんでいるそのあいだは、わたしにはわたしが託されている。あなたには、あなたが。

いま、わたしの横を歩く人たちは、気づけばしょっちゅう遅れをとっている。オンは道ばたに咲いている花を摘むのに夢中で、松樹は写真を撮るために何度も立ち止まろうとする。わたしはいつも「はやくはやく!!」とふたりを急かしながら、それでも前より少しだけ息がしやすくなっていることに気づく。

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