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2024.10.05更新

Nostalgiaにて

竹中万季

『わたしを覚えている街へ』で生まれ育った街をたくさん歩いて何かを思い出したり、街の記憶を知ったme and youの竹中万季さん。
この連載では、誰かと一緒に、それぞれ存在している懐かしさを感じる景色を歩きながら、それぞれが生きてきた記憶と、その場所が覚えている記憶を辿っていきます。
自分を構成する懐かしさの中で、ふたりの異なりと重なりの先に見えてくる景色とは。


第1回「あの人と、懐かしい景色を歩く」

目を瞑って眠りにつこうとするとき、ときどき想像することがある。いま自分が見ている世界からぐんとカメラが遠ざかって、地球全体を見渡して、わたしは日本の東京の世田谷という場所で暮らす小さな点でしかなくなる。カメラが横のほうにぐーっと移動すると、100年前、1000年前、あるいはもっともっと昔のその場所が見える。そこにわたしはいない。でもそこにもきっと、いまのわたしに少し似てる誰かがいたはずだ。

なぜだかわからないけれど、年表をなぞり、世界地図をなぞり、昔の写真を見ながら、そんなことばかり考えている。流れゆく長い時間のなかに、広い世界のなかに、自分とは異なるさまざまな人との関わりのなかに自分が存在しているのだということを確認すると、気持ちが楽になるになるからかもしれない。もし違う場所で、違う時代に、違う環境で生きていたとしたら、どんなわたしだったのだろう? 確固たる存在であるように感じる自分自身も、たまたまここにいるのだ、ということをいつも思う。

1988年に東京都渋谷区の病院で生まれて、世田谷で育ち、そこから自ら選択したり選択できなかったり、あるいは偶然に動かされたりしながら、今年わたしは36歳になった。学生時代は子供と大人ははっきりわかれているものだと思っていたから、自動的に過去の自分とはまったく切り離されたなにかになると信じていたけれど、30代になったいま、10代の頃のことをしつこいほどに振り返り続けている。切り離せるものではないんだな。

「過去を振り返ってばかりいないで」と言われることもあるけれど、居心地の悪さを感じてばかりいたあの頃の記憶がいまを支えているように感じるから、振り返らずにはいられない。10代の頃はどこにいても自分がいないような、なんにもできない感覚に駆られ、なんでもあるはずの東京で暮らしていたのにどこか違う場所に行きたくてしかたがなくて、はやく大人になれますように、と毎日願っていた。自分のことも大嫌いで、学校も行きたくなかった。大学に入ってからはそんな自分を打ち消して、社会にとって“普通”であろうと必死に努力していた時期もあったけれど、30歳に差し掛かった頃にどんな自分も打ち消す必要はないのだと確信してから、あの頃の自分を救いにいきたい気持ちで思い出し続けている。

大人になったいまも結局、あの頃と同じようなことに延々と悩み続けたり、失敗したり、うまくやれなかったりしている。ただ、10代の頃の葛藤や抵抗した経験、救ってくれた音楽や本や映画、見ていた景色や触れていたもの、そうした一つひとつが自分を構成するすべてに否応にも染み込んでいることを実感して、やっとあの頃の自分をほんの少しだけ認められるようになってきた。

ここ数年で、自分とは異なる場所や環境で生きてきたけれど、深いところで通じ合うことができる、年齢の異なる友人との出会いが多くあった。そうした関わりのなかで10代の頃の居心地の悪さについて話すことがあって、その度に一人ではなかったんだと過去の自分が少しずつ癒されていく。でも同時に、自分が生きてきた環境がいかに生きやすかったか自覚することも増えていった。

わたしは日本で生まれ育った日本語を話す日本人で、都市で暮らし、学ぶ環境を充分に与えられてきたし、女性として生まれ、生きてきて、これまでずっと異性の恋人を求めてきて、大きな病気にかかったこともない。女性だからという理由で悔しい思いをしたことはたくさんあるけれど、並べれば並べるほど自分のマジョリティ性の高さを実感して、なんというか、「自分はさほどつらいことを感じるような状況ではなかったのだから」と思いそうになる。比べる観点が異なることはわかっていながらも、後ろめたさが湧き出る。

自分が多くの特権を持っていることは紛れもない事実だし、人それぞれが抱えている痛みを完全にわかることはきっとできない。そんなの傲慢すぎる。話をしっかり聞こうとしても、正しい知識を知ろうと努力しても、想像できない部分の方が大きいに違いない。でも、誰かが感じた痛みに対して、過去に自分が別の経験で感じた痛みがひりひりと反応しているときがたしかにある。そういうふうに人間がつくられていることは、ひとつの救いだなと思う。

大人になってから出会った友人たちと、時間が経ったからこそ少しずつ共有できる過去の痛みにまつわる話をするとき、いつも少しだけ違いを超えられる感覚を覚える。別々の環境で生まれ暮らしてきたけれど、なぜだか重なりを感じてしまうこと。その重なりを大事にしながら、同時に同じだと言いくるめずに、それぞれがどんな道を辿ってきたのかということを、もっとじっくりと話してみたい。

生まれ育った三軒茶屋の街と記憶について綴る連載「わたしを覚えている街へ」を書いているとき、三軒茶屋の街をたくさん歩いて、歩きながら何かを思い出す瞬間が数多くあった。ものや場所をきっかけに、すっかり忘れてしまっていたことを思い出せることは、そういうふうに人間がつくられていてよかった、と思うもうひとつのことかもしれない。

この連載を通じて、街が抱える記憶をこんなにも知らなかったのか、ということにも驚いた。明治初期までは農村で、軍事施設の拡充により人が増えていき、軍隊の街になっていったこと。第一次世界大戦を経て住宅地や娯楽の場が広がり、世田谷の中でも中心的な街になっていったこと。この街でも関東大震災の際に朝鮮人虐殺が起きていたこと。これまで歴史を知らなかった、知ろうとしてこなかったのは、知らずにいてもなんの問題も起きずにぼんやりと暮らすことができていたからだとも思う。三軒茶屋でさえそうなのに、自分と繋がりが深くない街はいまだに誰かから聞いたイメージでしか捉えられないし、歴史はおろか名前すら知らない場所もたくさんある。多くの人に語られない場所の歴史は、誰にも知られないままになってしまうのだろうか。

自然、住宅、建造物、道、鉄道、野良猫、空を飛ぶ鳥、そこに暮らしている人たち。もっと目に見えない、文化や速さ、匂い、空気感。日々を重ねている街の構成要素から、無意識に受け取っているものがきっとたくさんある。街はあるときにできるものだけれど、その場所は急にそこに生まれたわけではなく、100年前や1000年前、もっとずっと前から存在していた。自分自身を構成する要素と、自分自身を包んでいる街が構成する要素。一人ひとりに、一つひとつの街に、それぞれの時間が広がっているということ。その異なりや重なりについても、もっと知ってみたい。誰かが懐かしいと感じる風景を辿り、幼少期や10代の頃について思い出した話を聞き、その場所が抱える歴史をもっと知っていけたら。

そう思ったときに、まだ関係を築けていない人ではなく、少しだけこんな話をしたことのある誰かとやってみたいと思った。できたら一緒にその風景を歩いてみたい。わたしは歴史に詳しいわけでもなく、むしろあまりしっかりと学んでこなかった自覚がある。話し上手・聞き上手かと言われると、それもよくわからない。この文章を書きながらも、迷いながら、書いたり消したりばかりしている。わからないことばかりだ。ただ話して歩くだけでは、なにかを知り尽くすことは到底できないこともわかっている。でも、一緒に歩いた誰かが思い出したことを通じて、きっとわたしもなにかを思い出すだろうし、書き残すことで、それを読んだ誰かもなにかを思い出せたらいい。街とのあたらしい関係が結べるようになったらいいなと思う。

その場所がまとう空気を知ることは、その人のことを知ることでもある。一人ひとりにそれぞれ存在している懐かしさを感じる景色を一緒に歩きながら、それぞれが生きてきた記憶と、その場所が覚えている記憶を辿っていく。

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