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twililight web magazine

2024.08.16更新

SETAGAYA MAGIC

世田谷ピンポンズ

twililightがある世田谷区の三軒茶屋に長いあいだ住んでいたフォークシンガー・世田谷ピンポンズによる、センチメンタル連載小説!


第5回「地震の日」

レジカウンターの足元がゆっくり揺れ始めていることに気づくと、瞬く間に大きな横揺れがきた。

横揺れは昔、お台場のジョイポリスで乗った変なアトラクションみたいに段階的にどんどん勢いを増していく。キャロットタワー全体がぶよぶよしたゼリー状のものにでも変わってしまったみたいだ。へにゃへにゃと視界が歪んでいく。外の様子は全く分からないけれど、足早に店を出始めるお客さんや、向かいのレンタルフロアがざわついている声で、大変な事態が起こったことだけは分かる。それなのにレジの交代時間までまだ十五分あることが気になって動けず、その場にいる。

「ねえ。会計してよ」

背広を着た男が経済雑誌を乱暴にレジに置いた。ぐわんぐわん揺れる視界の中で男だけが微動だにせず立っている。

「これ、地震ですよね?」

「あ、知らねえよ。急いでるんだから早くしろよ」

ゆっくりと確実にフロアがみちみち歪んでいく。

へへ。男が右の口角をめにょりと上げて笑った。

それにしてもひどい横揺れだ。本が揺れに合わせてバサバサ飛んでいるのが見える。

「杵賀谷君、なにしてるの? 避難だよ。早く出て!」

店長が叫んだ。

停止したエスカレーターにつんのめりそうになりながら駆け足でビルを出る。街のどの建物も沈黙し静まり返っているのに、道には人が溢れている。みな携帯電話の画面を凝視し、絶えずどこか安全な場所を探しながら行きつ戻りつしている。足元は相変わらずぶにょぶにょと頼りない。小さい頃に家族旅行で訪れたテーマパークの水上迷路みたいだ。湖面に作られたビニールのトンネルの中をずぼずぼと足を取られながらはいつくばって進んだ。足元がままならないことに著しくイラつきながら、そんな不自由さにどこかワクワクもした。

「沈む前に足を出し続けるんだよ。そうすりゃ君は水の上だって歩けるさ」

みんな、我先にという感覚は持っているに違いないのだが、露骨にそれは表さず、無言で列をなして歩いていく。前を歩く人のかかとにたまに足がぶつかり、後ろの人のつま先が自分のかかとをつつく。

246を渡った路地の先に避難場所であるナショナルスクールがあった。校庭は近くから避難してきた人たちで溢れ返っている。空いているスペースに数人のスタッフと一緒に腰を下ろす。人工芝のグラウンドだ。一度でいいからこんなところでサッカーの試合をしてみたかった、と漠然と思った。

「ちょっと、これみて下さいよ!」

寒川という大学生のスタッフが頓狂な声を上げた。携帯の画面には白く大きな波が海岸を目指して洋上を進む姿が映っていた。

「実家のある千葉の方では工場が爆発したらしいです。もしかするとデマかもしれないですが。今日はもう帰れないかもしれませんね」

寒川の革ジャンの裾が風に吹かれてテロテロ揺れた。

暗くなってから売場の現状復帰作業をして、アパートの部屋に帰る頃にはもう深夜になっていた。茶沢通りは薄暗く静かだった。

アパートは何事もなかったかのようにそこに建っていたけれど、本やCDの山がめちゃくちゃに折り重なってくたばっている姿を想像するだけで憂鬱だった。

ドアを開けると、いつもの自分の匂いがした。あれほどの揺れだったにも関わらず、部屋は小さなCDラックがひとつ倒れているだけだった。なんだかひどく後ろめたかった。

CDラックを元に戻すのに時間はかからなかったけれど、とめどなく続く余震に備えて、靴下を履いたまま眠っていると、布一枚隔てただけで、もう二度と戻ってこない時間があることが深く実感できた。

地震のあと、三軒茶屋の街は薄く重い膜で覆われてしまったようなかんじだった。街の人たちの一挙手一投足がわざとらしく、お互い不自然に気を遣い合っている。大きく口を開けて息を吸うこともためらわれるようになり、それぞれにどこか行き場のない不安を殺気とともにふとこらせ、街にはピリピリと情けない空気が流れ続けた。

「杵賀谷、ライブやらないか? こんなときだからこそ音楽だよ。幸い、うちのスタッフの中には表現を志している奴らも多いしさ」

中村さんがそんなことを言い出したのは、地震から一か月が経った頃のことだった。

「音楽の力、見せてやろうよ。募金とか来場者にお願いして」

中村さんのあくまでも自分は何かを促す側であり、施してやる側にいるのだという確固たる自信が怖かった。

「あ、まあそうですね。それもいいかもしれないですね」

「おーい。君さ、風とロックSUPER野馬追のサンボ観なかったわけ? いまこそ音楽にできることがあるんだよ」

その映像は観ていた。会場が福島だったため、放射線の問題でフェス自体を叩く声もちらほらあったが、涙をこらえながら歌う山口隆の姿は確かにグッとくるものがあった。おばあさんが顔を両手で覆って泣いていた。若者が号泣しながら手を振り上げていた。

「ちょっとライブハウスあたってみてくれよ。チャリティーとか興味ありそうなとこ」

威勢は良いのに、大事な部分は人任せでいいと腑に落ちて疑わない。そのさもしさは自分にもある。

「わかりました。僕の知っている下北沢のライブハウスに聞いてみます」

こんなとき、僕はイエスマンになるしかない。

「燃えてきたよね」

「ですね」

手短に何のリスクを負うこともなく、ストレスが発散できるのならそれでいいと思う浅はかな気持ちもあった。

「ばはははは。楽しみだな」

「そんなの出るのやめなよ」

ノスタルジーは開口一番そう言った。

「君には君のやり方でできることがあるはずだよ。酷なこと言うようだけど、いま被災地に必要なのは音楽じゃないんだよ。よしんばいま音楽に本当に出番があるとしてもさ、それは志がどうであれ、いま地震を、被災地を、結果的に自己実現の道具みたいに使うことになってしまう有象無象の無名の音楽じゃなくて、誰もが知っているような、皆が少しでも口ずさめるようなヒット曲なんだよ」

言いたいことは分かるが、それは自分のことを有象無象と認めることでもある。

「知名度なんか普段、物の良し悪しに関係ないって私も思ってるよ。でもね、広く沢山の人の心をつかむもの。こういうときのためにそういうスタンダードな音楽があるのかもしれないよ」

本当にそういうものばかりがいま必要とされているのかは分からなかったけれど、地震が起きてからのアマチュアミュージシャンの独りよがりな音楽の押し売りには確かに辟易するものがあった。

携帯の画面には知り合いのバンドのボーカルのツイートが張りついている。

「兄が僕に言ったんです。『歌え』って。こんなときだから、こんなときだからこそ、僕は『歌おう』と思います。この動画を拡散してください! 『希望』という曲です」

ほとんど面識のない若手のアマチュアミュージシャンからDMが来たこともあった。

「笑顔の写真を下さい。沢山の笑顔を集めて、僕の曲のPVにして被災地に届けようと思うんです」

売名。自己満足。

自分が煩悶してできないラインを、簡単に越えてくる者がいることが恐ろしかった。良いことだと信じて疑わない思い込みの強さ、無垢さに何度も傷つけられた。

「うん。でもさ、なんやかや職場の人たちが結構参加するみたいなんだ」

それなのに自分の口からはこんな言葉しか出てこない。

「はあ、まあいいじゃん。みんなで楽しく。彼らのライブ自体はそれでいいよ。でも君は噛まないほうがいい」

「関係性もあるしさ、断れないと思う」

「おいおい。君はどこまで情けないんだよ。そんなこと言うなよ」

「しょうがないだろ! 少しは僕の立場も分かってくれよな」

「おお、そこまで言ってしまうのかい」

ノスタルジーは哀しそうに、ぷすうと屁をこくと、静かに何処かへ行ってしまった。

中村さん主催のライブの日がやってきた。

ライブハウスのドアには薄汚れた黒板がかかっている。

『地震に負けるな!「元気出そうぜ」ライブ 三茶の仲間、全員集合!』

ドアを開けると、色紙で作ったのだろう、変にキラ光りした三角帽を被った中村さんの姿が見えた。

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