twililight web magazine
SETAGAYA MAGIC
世田谷ピンポンズ
twililightがある世田谷区の三軒茶屋に長いあいだ住んでいたフォークシンガー・世田谷ピンポンズによる、センチメンタル連載小説!
第7回「送別会」
しばらく切れたままになっている共同玄関の裸電球を暗闇の中できれいによけ、ギシギシ音を立てて軋む階段をつま先立ちで慎重に上っていく。階段のすぐ横にある部屋に人の気配はない。隣人はまだ帰ってきていないようだ。
なんだ。それなら気にせずに勢いよくのぼってくればよかった。俺って本当に気が小さいな。乾いた笑いを一つ吐く。
部屋に入って明かりをつけたあと、昼間、換気のために少しだけ開けておいた窓を閉める。アパートの側面にびっしりと絡みつき繁茂した雑草は冬の終わり近くの寒さで枯れている。それでも少しだけ春っぽい爽やかな緑の匂いが薫った気がして、心が動いた。
室外機をつけられないという理由でエアコンが設置できなかった部屋。夏にはそんな雑草たちが緑のカーテンみたいに機能して、うだるような暑さを少しはいなしてくれた。しばらく使っていない炊事場には蜘蛛の巣がはっている。本棚代わりの衣装ケースにはブックオフで買ったコンビニコミックスが乱雑に詰め込まれている。足の踏み場もないほど散らかった部屋の真ん中、敷きっぱなしの布団の上にあぐらをかいて、発泡酒の缶を開ける。
これからだったのに。
中村はひとりつぶやく。
※
ライブのあと、店長からの電話で店に呼び出された中村さんはその日のうちにクビを言い渡された。
中村さんが担当するアニメ系漫画の販促用POPや余った購入特典を後輩が勝手に持ち出し、オークションサイトで売っていたことが発覚したのだ。もちろんそれだけでは中村さんは被害者のはずだったが、何度か後輩に請われて、POPを渡していたことも分かり、後輩ともども退職することになったのだった。
三軒茶屋駅近くのビルの地下にある大衆居酒屋。いつもの店のいつもの奥の長テーブルにいつものメンバーが座っている。
もう五度目になる中村さんの送別会。
中村さんが地元に帰ることになったこともあり、職場のほとんどのスタッフが集まった最初の送別会から一か月。回を重ねるごとに、参加者は入れ代わり立ち代わり徐々に減り、今日にいたって、わずか三人になった。
「夢破れて都落ちだよ。たははは。やんごとなき事情において、半ばで夢をあきらめざるを得ないことになっちゃったけどさ。楽しかったよ。この数年間」
中村さんがお道化てお辞儀する。手を変え品を変え、日に日に白々しく薄まっていくスピーチはもうすでに半ばギャグ化していたが、付き合いの深い僕や双木、千代田さんはそんな彼に辛抱強く付き合っていた。
「で、中村さん、結局いつ帰るんすかあ」
間髪入れずに双木がニヤニヤと横槍を入れる。
「うるせえなあ。来週には帰るからさ。とにかく飲んでくれよ。寂しいんだよ」
中村さんにとってはギリギリまで探し続けたバイトも結局決まらず、粘りに粘った挙句のいまだった。
「とりあえず乾杯しよう。もう中村さんがどうとか気にしないでさ」
千代田さんの合図でしっぽり乾杯する。
※
ギシギシと勢いよく階段を上る音がする。隣の部屋のドアが乱暴に閉められる。その勢いで自室のドアの擦りガラスが少しだけカタカタ鳴った。ちびちび飲み続けている発泡酒のせいで、それほど腹が立たないのがなんだかおかしかった。むしろ妙に情けない現状にユーモアさえ感じ、笑いが漏れてくる。エレキギターは昨日ハードオフに売った。ギター一本分、広くなった部屋は、上京してすぐ一度だけできた彼女が自分のもとを去ったときよりも、がらんとして寒々しく見えた。ギターを売ったお金はそのまま地元に帰る新幹線代に消えた。つまみに買ったおかきのくずが布団の上に散らばっていたが、気にせずそのまま横になった。
※
「中村さんが何遍も何遍も送別会で呼び出すんで、言えなかったんすけどお」
ジョッキの表面についた水滴のぷつぷつを指ですべり取りながら、双木が切り出す。
「自分も来月、地元に帰ることになりましたわ」
「え」
思わず素っ頓狂な声が出て焦る。ビールジョッキに顔を沈めていた中村さんが焦点の定まらない目でこちらをねめつける。
「実家の事情って感じっすわ。中村さんの送別会(五回目)なのに、すいません。いま言っとかないと、タイミング無くなっちゃいそうで」
双木の着ているサテンのシャツが居酒屋の安っぽい間接照明に反射してテロテロと光る。
「双木、淋しくなるね」
千代田さんがボソっと言う。
ぽしゅっと言いながら中村さんが双木の顔めがけておしぼりを投げた。
すんでのところで、双木が手のひらで撃ち落とす。
「何してんすか。中村さん。よくないお酒だなあ」
へらへらと笑いに変えようとする双木を静止して中村さんがまくし立てる。
「東京の重力に魂をひかれた人間たちよ。さあ解き放たれたまえ! 東京に魂を縛り付けられた人間たちよ! すべからく解放されたまえ!」
「何言ってんだ」
「うふふ。なあ双木、こいつらみたいに東京にしがみついて、いつまでも薄っぺらのボストンバッグ抱えていたって、しょうがないよな。夢の行き先は墓場だよ。グレイブだよ」
「中村さん、俺は家の事情で…」
双木が言い終わる前に、中村さんはふざけて双木に腕ひしぎを決め、一緒に後ろに倒れる。
「我々は先にこの街を離脱します! ああ得も言われぬ解放感。我々は一体、何と戦ってきたというのか。何と馴れ合ってきたというのか!」
「中村さん、わりい酒だな。ほんとに」
双木はそれでもなおも笑いに変えようとする。しかし振りほどけば振りほどいた分だけ、中村さんはニヤニヤと双木にしがみつき、執拗に腕ひしぎをかける。
「ちょっと中村さん、やめなって」
「おう千代田。お前さ、この街でしか叶えることができない夢なんて本当にあるのかよ」
「中村さん、やめろって」
双木がいよいよ声を荒げる。
「おーい。千代田。あんのかよう」
怖くなるくらいしつこい。
「中村さん、私はあなたが夢だ夢だって連呼するたびにむかつくよ。私は演劇をやるためだったら、なんだってするつもりだよ。なんだってして、この街にしがみつくつもりなんだ。それは私の欲しいものがきっとこの街にあるからだよ。選ばれてなんかいないかもしれないけど、私にはこれがないと困るんだ。それはもう夢が叶うとか叶わないとか、そういう段階の話じゃないんだよ」
中村さんは口をへの字に曲げている。
「中村さんは結局、この街で何がしたかったの。それはこの街じゃなくちゃだめなことだったの?」
僕たちは結局いつもこの問いの間で揺れ動くことになる。
※
「ようやく新しいドラムも決まってさ、これから精力的にライブしていこうと思ってんだ。そのためには稼がないといけないからさ、ちょっと俺、夜のシフトに入るね。杵賀谷とは被らなくなっちゃうけどさ、我慢してよね」
世田谷線沿いの公園でタバコを吹かしながら、中村さんが笑った。
「寂しくなりますね。でも嬉しいです。またライブ観に行きますからね」
「おう。俺たち、頑張ろうな。せっかく東京でこうやって出会ったんだからさ、どうせならみんなでハッピーになりたいよね」
あっつ! 短くなり過ぎたタバコを反射的に放り投げて、中村さんがまた笑った。
世田谷線が三軒茶屋駅を出る。線路の上を滑っていく。
キャロットタワーの上空は霞がかっていて、いまにも雪が降ってきそうだった。
まだ地震の起こる数か月前のことだった。
※
「東京で音楽できなくなった以上やめるってかんじ」
「おいおい。中村さんがほんとに音楽をしたいなら、広島に帰ってもやればいいじゃん。都落ちってなんだよ。武士か貴族にでもなったつもりかよ。それで何か満足したのかよ」
千代田さんはこの街でしか、と言うけれど、僕にもこの街じゃないといけない理由が果たしてあるだろうか、と考える。
「やれよ、やりたいんならさ。誰もこの街に縛り付けられてなんかいないんだ。あんたはあんたに縛り付けられているだけだよ!」
「厳しいって。自分のせいじゃない、どうすることもできない力のせいで、やめるっていう口実を俺に作らせておくれよ」
力なく笑った中村さんのポケットから飛び出した下足箱の木鍵が廊下に転がってカランコロン鳴った。
「お金なくなっちゃったんだよ」
※
リサイクルショップで買ったトランクを転がして、東京駅の構内を中村が歩いていく。
あーあそれにしてもなんでこの街の人ってこんなに忙しなく歩くんだろうね。気を抜いたらぶつかっちゃうじゃない。やっぱり俺はこの街のスピードに合わなかったってことなのかね。みんないつも俺をなじるけどさ、俺は俺で頑張ったよね。うん。やれるだけやったって。やれることちょびっとしかなかったかもしんないけど。大体、夢破れるくらい言わせてよ。そう思わなければ俺は俺を救えないんだって。
新幹線が動き出す。その瞬間、街を歩く人間と車窓からそれを眺める人間との間にどうにもならない決定的な壁が生まれる。ああ、あの人たちは今日も東京におるんだな。俺はどんどん東京から離れていくよ。街の灯りが段々まばらになっていく、みたいな分かりやすさがあれば少しはましだったんだけどさ。広島、いい街なんだよね。それが俺はなんだか悔しいんだ。だって別にできちゃうじゃない。音楽。
前向けないけど後ろ向けないみたいな、いま俺そんなかんじ。きっと俺のこんな人生もまた勝手に誰かにひとつのストーリーにされちまうのかな。やめた人間。敗けた人間。戦いから背を向けた人間つってさ。
ねえ、杵賀谷。お前、こんなの好きだろう?
新幹線が多摩川を越えた頃、中村はまどろむ。気づいたときには新幹線は広島に着いている。
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プロフィール
フォークシンガー。
吉田拓郎や70年代フォーク・歌謡曲のエッセンスを取り入れながらも、ノスタルジーで終わることなく「いま」を歌う。
音楽のみならず、文学や古本屋、喫茶店にも造詣が深く、最近では文筆活動も積極的に行っている。
あたらしいフォークの旗手。