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twililight web magazine

2024.09.27更新

SETAGAYA MAGIC

世田谷ピンポンズ

twililightがある世田谷区の三軒茶屋に長いあいだ住んでいたフォークシンガー・世田谷ピンポンズによる、センチメンタル連載小説!


第8回「世田谷マジック」

「ねぇ、ちょっとその帽子かしてよ」

歌手は僕の頭からすぽっと帽子を取り上げ、毛量の多いカーリーヘアーの上にちょこんと乗せると、ステージに出ていった。大きく丸いサングラス越しにフロアを見据える目が鋭い。それでいてひどく繊細なギターを弾く。呟くような歌声はちょっとでも触れたら儚く消えてしまいそうだ。

歌手は一曲目を歌い終え、深くため息をつくと、フロアに向かって帽子を放り投げた。

チューリップハットがスポットライトに照らされながら円盤みたいに飛んでいく。時が止まったかのようにしばらくふわついていたそれは、急にあっけなく浮力を失うと、タバコ臭くアルコールでねちゃついた床に着地した。

誰も拾わなかった。

ライブハウスを出て、下北沢から茶沢通りを歩いて三軒茶屋に帰る。霧に包まれた夜の中に、普段からあまり人のいないファミレスの灯りだけが煌々と光っている。向かいのビルの二階、ガラス張りのライブバーには誰もいない客席に向かって一心不乱に歌うミュージシャンの姿が見える。最初から人のいない空間と誰も来なかった空白とでは意味が全然違う。ことばが歌になる瞬間、そこに大勢の誰かがいてほしいと願うのは驕りだろうか。良い曲を書きたいということと、誰かに認められたいということは両立してはいけないのだろうか。そんなことをふと思う。

ファミレスを過ぎた先で、通りはふくよかなカーブを描き、その後は真っ直ぐ緩やかな上り坂になる。右手前方に緑色のスーパーの光がぼんやり見えてくると代沢十字路は近い。十字路を越えると下り坂になっていて、そこはもう三軒茶屋だ。

代沢十字路で信号待ちをしていると、スーパーの脇にある植え込みにコートを着た男がうずくまっているのが見えた。行き交う人はみんな男を素通りしていく。無視するというよりは気づいていないといった風情だ。信号が変わり、男に近づくにつれ、段々その輪郭がはっきりしてくる。しおれた羽のついたストローハット、褪せた真っ黒のコートの中には、汗で変色し、いかにも匂い立ちそうなタンクトップが見える。

「兄ちゃん、フォークかい?」

男はゆっくり顔を上げ、こちらを認めると、しゃくりあげるように言った。かなり浅黒く日焼けしているが、ひどく貧弱な身体だ。歳は50代よりは上に見える。

「え?」

「兄ちゃん、フォークだろ? それ、フォークギターだもんな」

フォークギターだからといって、フォークとは限らない。でも。

男のその痰が絡み、低く籠った声が恐ろしい。

「兄ちゃんのやっているような音楽。もうこの世界では金輪際、持て囃されることはないみたいだぜ」

男はやけに確信めいて言い切った。

逃げるように歩き出した背中に男が浴びせかける。

「フォーーーーク!!」

あれはきっと代沢十字路の悪魔だ。

アパートの天井にできた染みが波のように激しくうねっている。窓際に置いた一輪挿しの紅い花がしおれている。ケースからギターを取り出すと、ライブハウスを出るときには確かに張っていたはずの三弦が切れていた。時折、タクシーのヘッドライトが閃光のように窓の表面を走っていく。動悸が止まらない。叫び出しそうになるのを必死に堪えながら急いで布団に入る。

「フォークみたいな廃れた音楽をあえてやるのがかっこいいってわけだ。杵賀谷君。君は全く貴重な人種だよ」

ノルマを数えながら笑う一個下のライブハウススタッフの声の輪郭。

「えっ、オリジナル? そんなの聴く人いるんですか?」

何の悪気もないアルバイトの大学生の声の輪郭。

「杵賀谷、よくも俺のことを勝手に歌にしてくれたな」

中村さんの低く震えた声の輪郭。

「やっぱり君もどこかの誰かと同じような悩みを悩むんだね」

誰だ。

「当たり前のようにこの街に居座って、一体君はいつまでここに居座るつもりなのかい」

誰だ。

「そもそも君は真面目に音楽に、生活に、ちゃんと向き合ってきたってそう胸を張って言えるのかね」

誰だ。誰だ。誰だ。

有象無象の声の輪郭はやがて世田谷の住宅街のそこここから聞こえる衣擦れや皿を洗う音、テレビやラジオの音と混ざり合い、声にならないノイズに変わっていく。

暗闇の中で枕元に置いたラジカセの液晶だけが青く点滅している。

傍に双木が送別会で配っていたCDRが落ちている。渡す人それぞれにメッセージが書かれ、双木がその人っぽいと思った歌を一曲選んで入れたひどく湿っぽい代物だ。もらってからずっとそのままになっていた。

CDRをラジカセにセットし、再生ボタンを押す。

古いラジカセだったが、CDRはカスカスと頼りない音を出しながら回り出した。

“生きている直ちゃん 飲んでいる直ちゃん

もうとうにみんな眠りこけている

それでも直ちゃん 飲んでいる直ちゃん

直ちゃんにだけ朝が流れてくる カルピス色の朝が流れてくる”

「この曲、なんかお前っぽいだろ。何があってもお前はお前の音楽を続けるんだぞ」

朝比奈逸人『直ちゃん』。

白い盤面に書かれた双木の下手くそな字。

もうこの街にいない双木のことがひどく恋しい。

いつの間にまどろんでいたのだろう。

気がつくとタバコ臭い車の後部座席にもたれていた。

「嫌だ、世田谷マジック!」

不動産屋の女性が急ブレーキをかける。

「ごめんなさい。Uターンするので」

隣には今はもう地元に帰った友達が二人座っている。

だいぶ春めいてきてはいるけれど、まだまだ風の冷たい日だった。

「この辺り路地が入り組んでいるでしょう。慣れていても間違っちゃうんですよね。こういうのを私たち世田谷マジックって呼んでおりまして」

「確かに運転するのが大変そうですね」

免許もないくせに世慣れたような口を聞く友達がおかしくて、思わずくすくす笑う。

そうやって、なんとかたどり着いたのが三軒茶屋で初めて住んだアパートだった。

数年前のことなのに、ずいぶん時間が経った気がする。

そういえば海のある街に住んだことがないなと漠然と思った。海と違ってこんなに目印の沢山ある街の中で僕たちはいつも迷い続けている。

「でもね、そうやって入り組んだ路地を迷いながらさまよっていると、いつか不思議と見たことのない商店街とか、二度とたどり着けない社を見つけることもあるんだって」

ひどく懐かしい声がする。

「いなくなっちゃった人やもう行けない場所ばっかりなのに?」

「もっともっと迷い惑うことだよ。君がこの街で出会った人たちがえっちらおっちらそうやって暮らしてきたみたいにね。茶沢通りの一本道でさえ迷う君さ。だからこそ、ひょんなことからまたいつかどこかで別れた誰かと再会できるかもしれない。誰も見たことのないような変な景色を見つけることができるかもしれない」

ふいに瞼の内側に淡い光の射す気配を感じる。

「それが本当の世田谷マジックなんじゃないかな」

こびりついた目ヤニをこそげ落としながら、ゆっくり目を開ける。

「おはよう」

枕元にノスタルジーが立っている。

「おはよう」

寝ぼけたままの体をなんとか起こし、眼鏡を手探りで探す。

「おいおい。とんだ寝癖だな」

ノスタルジーはそう言って微笑むと、勢いよく窓を開け放した。

茶沢通りを車が行き交っている。

動き出した街に忙しない足音が響いている。

もう何度も迎えた三軒茶屋の朝だ。

窓の向こう、明るくなりかけている空の先に朝露に濡れたキャロットタワーが恥ずかしそうに建っているのが見える。

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