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twililight web magazine

2025.01.13更新

人といることの、すさまじさとすばらしさ

きくちゆみこ

この連載は、『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』のきくちゆみこさんが、新しく引っ越してきた郊外の団地にて、長年苦手としてきた「人とともにいること」の学びと向き合いながら、日々の出来事を書き綴っていきます。


第6回「Three is the magic number」 2025年1月𓆙日(水)の日記

A woman’s whole life in a single day. Just one day. And in that day her whole life.
ひとりの女の人生、そのすべてはたった一日のなかにある。まさにその日に、彼女の一生が。- 映画「めぐりあう時間たち」

 

慣れたくないな、と思う。朝起きてお湯を沸かすことも、シンクに溜まった食器を洗うことも、食材はあるかなと何度も冷蔵庫を開け閉めすることも。からまった洗濯物をいったんバスケットに取り出し、縮まったオンの肌着やレギンスをぐいぐい引っ張りほぐしていく。左、右、と襟口にハンガーを差し込んで、同じ種類の靴下を探し当てたらつま先をぴったり合わせて洗濯ばさみで留める、そのくり返し、くり返し。

慣れなくては、自動モードでこなさなくてはとても正気を保てなそうなすべてのことに、それでも慣れたくないと思う。いくつものパーツに分かれた子ども用水筒の乾かなさ、複数の人間が一日そこにいるだけで溜まるほこりと落ちた髪の毛、リビングの加湿器、子ども部屋の加湿器、寝室の加湿器、に足しては減っていく水、水、水。

 

なんと驚くべき、なんと不思議な! われ炭をもち、水を汲む 
– 唐代の禅者 龐居士

 

慣れたくない、オンと松樹とわたしが3人でいることに。ひとりきりからふたりになり、いつのまにか3人になってもう7年が経つことに。

*

午前6時、アラームの前に目を覚ます。カーテン代わりにしている薄いガーゼのブランケットをつらぬく朝日がまぶしい。リビングの奥に続くこの和室で寝起きするようになって一週間。冬休みまであと残りわずか、というところでオンが高熱で寝込み、続いて松樹も同じように40度出して仕事を収められないまま新年を迎えた。年末にtwililightで安達茉莉子さんとのトークイベントを予定していたわたしは、絶対にうつっちゃダメだ……と必死に対策、そんなわけでみんな別々の部屋で年を越したのだった。

とはいえ例年、年末のわたしたちは寝室どころか日中もいつもばらばらだった。ひとりで美容室を営む松樹は、世間が仕事納めだ!とつぶやきはじめるころが繁忙期で、大掃除をする暇もなく年をまたいでいく。わたしも12月は展示だイベントだとバタバタしがちで、とっくに冬休みを迎えているオンは母たちの家で過ごすことが多くなる。そもそも松樹は週末も仕事、1年のうち四六時中3人でいられるのは両手の指の数で足りてしまうくらいの家族なのだ。だけど今年はクリスマスが終わってから、新学期がはじまる9日までほとんどずっと3人で過ごすことになった。違う部屋に引っ込みながら、それでも同じ屋根の下。

薄い簡易マットレスに寝転んだまま考える。こんなに3人でいたのはコロナ禍の自粛期間以来かもしれない。ここよりずっと狭かった東京のマンション、仕事ができる個室もなく、カフェにも行けず、感染がこわくて母たちに預けることもできず、それでもわたしだけが締め切りを抱えていて、遊びに行けないオンの不満と仕事がなくなりのんびりしている松樹の余裕を目の当たりにしたわたしはすっかり参ってしまったんだった。

あの時も、ふたりは仲良く順番に病に倒れていた。コロナではなく、松樹が大人になってから水ぼうそうを発症、続いてオンにも順調にぶつぶつが出て、すでにかかっていたわたしだけ、寝込むこともできず、それでもストレスでずっと調子が悪く、病が明けてすっきりしたふたりの顔がとにかくまぶしかった。3人でいるのに、3人になっておそらくはじめてこんなに長く3人でいるのに、わたしはものすごく孤独だった。夜になると目黒川まで降り、川沿いを歩きながら散りゆく桜を眺めていた。毎朝の検温に慣れ、マスクに慣れ、手の消毒に慣れ、感染者数のチェックに慣れ、ほかの誰にも会わず狭い部屋に3人でいることに慣れきってしまうと、もうこれが永遠に続くんだとしか思えなくなって、心が文字通り壊れてしまった。

朝食は元旦に母からもらったお雑煮の残り。年末に友人からおすそわけしてもらった広島のお餅を焼いて入れた。すでに時刻は10時過ぎ、今日は三崎に初詣に行くことになっている。午前中のうちにお参りをしたいのでもうあまり時間がない。わたしだけそそくさと準備を終え、先にひとりで家を出て駐車場に向かう。「エンジンあっためておくね、車で待ってる」、そのたった数分のひとり時間で息を吐き切り、気持ちを整えておくのだ。

今よりもう少し若くまだ親じゃなかったころ、慌ただしい年末を乗り越え、元旦に父母を訪れたあとの数日間はいつもふたりきりで過ごしていた。松樹はめずらしく世間に合わせて仕事がなくて、わたしの気持ちも穏やかで、初詣のあとはどこかのカフェでいつもゆっくり読書をする。DVDを何枚も借りて一晩に2本映画を観ることもあった。それが遠い過去のように思えてくる。

バイパスに向かい、横横と縦貫道を通って一路三崎へ。一般道に出て駅前を通り過ぎ、両側に畑を見ながらひたすら一本道を走っていくと、最後には港に辿りつく。お日さまは生まれたてみたいにまぶしくて、桟橋の向こうの海がぴかぴかと点滅しているのがフロントガラス越しに見えた。数秒前、かつて通っていた小学校の前を通過した。「これ、わたしの通学路だよ、この道をランドセルで歩いてたんだよ」と思わずふり向いて後部座席のオンと松樹に語りかけた、その時のかすかな胸の痛みもすっかり散るほどの晴れやかな新年の海だった。

「うらり」の駐車場に車を停め、下町の神社に初詣。小学校のころに飼っていた(道路で轢かれそうになっていたのを母が助けた)亀を神社の池に放した、というエピソードをオンは覚えていて、鳥居をくぐると一目散にそちらに走っていく。「だって万年生きるんでしょ!」という期待もよそに、亀どころか生き物の気配すらなく、あの子はいったいどこにいったんだろう、あれからどうやって生きていたんだろう、手放すとき、けっこう悲しかったな、とセンチメンタルな気持ちがよみがえってきたところで、「バアは竜宮城に行ったかねえ」という松樹の冗談、少しイラっとしつつ、手と心を水で清めてから3人で神さまに手を合わせた。

「3人組はむずかしいって言うもんねえ」

小学校に上がったオンは友だちの数がぐんと増え、それに伴いちょっとした喧嘩や仲間はずれも経験するようになった。これまで通っていた子ども園では同学年の子はオンも含めてわずか3人、女の子はオンともうひとりだけだったので、プライベートではふたりで遊ぶことが多かった。手をつないで歩くのも、ブランコに並んで乗るのも、シーソーを上下するのもふたりならすんなりいくことが、たったひとり増えただけで力学が変化する。「わたしが真ん中!」「わたしが先!」「〇〇と隣に座りたい!」、などと言い合えるのはまだいいほうで、いつのまにかひとり歩調が遅くなっている、会話に入れなくなっている、そんなふうにひとり外れている子どもを目の当たりにすると、それがオンであれ誰であれわたしは胸が苦しくなる、息が詰まってその場にいるのがつらくなる。

そんな親としての不甲斐なさを母たちに打ち明けたところ、帰ってくるのはこんな言葉で、「わたしも昔いやだったなー」「どうしてだかそうなっちゃうんだよね」「3という魔の数字!」、それが共有できているだけでも少し気持ちが楽になるのだった。

シャッターだらけの商店街をうろつき、大好きなエスニックの小料理屋さんが空いていたのでよろこび勇んでお昼ご飯。三浦大根のスパイスチキンカレープレートと、自家製おでんを頼んだ。お店を切り盛りするすてきな姉妹に新年の挨拶をしつつ、ごはんが届くのを待っていると、松樹がかばんから毛糸と編み棒を取り出しおもむろに編みはじめた。オンも自分のポーチから道具を取り出し、ふたりとも並んでもくもくと編み物。読みかけの本を車に忘れ、携帯の充電もあまりないわたしはふたたび物思いにふける。

小学校のころ、20分休みや昼休みは毎回戦いだった。〇〇より先に、△△に話しかけに行かなくちゃ! 席替えでわたしのほうが遠くなっちゃったから、チャイムが鳴ったらすぐに動かないと! 時計をにらみ、休みの数分前から戦闘準備を整える。 わたしが仲良くしたい子にはたいていすでに仲良しがいて、さもなければいつのまにか別のだれかと仲良くなってしまう、そんな呪いみたいなゴールデンルールに縛られ、解けぬまますっかり大人になり、家庭内でもそれをくり返していることに気づいてちょっと笑ってしまう。

今日もずっと、オンと松樹は後部座席に並んで座っていた。わたしが運転したかったこともあるけれど、幼少期の反転みたいでまた笑えてくる。かつてのわたしは、運転席と助手席にいる母と父の後ろ姿をシート越しにぼんやり眺めながらひとりで後ろに座っていた。オンの体型は松樹のようにほっそりしてわたしに似たところがない。運動感覚もすぐれている。左目が弱視なところまで同じ。松樹があまり好まない食べ物でわたしが好きなもの、たとえばプリンや茶碗蒸し、蕎麦、こんにゃくetc… はオンもあんまり好きじゃない。昨日も父と母とおせちをつまみながら「オンとパパは食べ物の好みまで一緒だねえ」と言われていたんだった。

いつも誰かとふたりきりになりたくて、そうじゃないと安心できなくて、あなたとわたしふたりだけの閉ざされた世界、でもそれもまたべつの誰かの登場で簡単に崩されてしまう。7歳のわたしも17歳のわたしも、自分の狭量さに気づきながら、それでも「邪魔もの! どっかいっちゃえ!」と天井をにらみながら毎晩誰かに毒づいていた、それが跳ね返っていま、わたしこそが邪魔ものみたいに思えてくる。

カレープレートとおでんが届けられた。どちらにもふんだんに使われた三浦大根はやっぱりおいしくて、その緻密さとやわらかさに思わず泣きそうになる。自家製の黄色い柚子胡椒をつけるとピリッと現実に戻り、オンに「おいしいねえ、三浦大根はやっぱりすごいねえ」、松樹に「市場で買って帰ろう」などと言いながら楽しく昼食を終えた。

会計のために席を立つと、カウンター席に見たことのある顔が座っていた。同じく下町でお店を開いていたAさんだった。「わあ、ちょうど一年ぶりですね。今年もよろしくお願いします!」。昨年の年明け、『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』の刊行記念イベントを三崎の雑貨屋さんで開いてもらった。そこで当時店長をしていたRちゃんのつながりから、三崎で暮らしお店を営む人たちと知り合うことができた。「Rちゃん、俺最近会いましたよー、広島でイベントしていたときに」。AさんもRちゃんも、このお店のすてきな姉妹も、みんなこちらに移住してきた人たちで、わたしが子どもだったころにはこの町にはいなかった、それがなんだか不思議だった。大人になってからは、ふたりでも3人でもなく、大きなつながりのなかでゆるゆると知り合う人たちがどんどん増えてきた。家族でも親戚でもなく、地元の昔馴染みでもない、それでも顔を知っていて、新年の挨拶をできる人たちがいる、それだけでたしかに生きやすくなっている。

市場で三浦大根を2本買い、横須賀方面に戻って岩石海岸でひとしきり遊び、オンは「ソレイユの丘」でアスレチックをしてから夕方遅くに家に戻る。ソレイユでも、たい焼き屋さんを営む知り合いにばったり会い、挨拶をした。帰り道、お餅をおすそわけしてくれたオンの同級生の家に大根を届けに隣町に立ち寄る。オンはひさしぶりに友だちに会えてうれしそう、妹と一緒に3人で手をつないでマンションの周りをひとっ走りして車に戻ってきた。

*

夜、「めぐりあう時間たち」が配信にあるのを見つけてレンタルした。いろいろな人たちが言及していてずっと気になっていたのに、観る機会を逃し続けていたのだ。「ヴァージニア・ウルフなんてこわくない」とは言えない英米文学科卒のわたしは、エッセイをいくつか読んだあと、『灯台』を開くたびに断念、それ以来彼女の小説作品を読めずにいる、そのうしろめたさのせいかもしれない。

「めぐりあう時間たち」は、そんなウルフの小説『ダロウェイ夫人』をきっかけに、時間を超えてつながる3人の女性たちのたった一日のできごとを描いている。その日、パーティーを自宅で開くことになっているひとりの中年女性ダロウェイ夫人の物語を、その複雑な内面世界を、いままさに書き綴ろうとしているウルフと、それぞれおよそ50年の時を隔て、夫人よりもずっとささやかなパーティーを開く予定でいるふたりの女性たち。フィリップ・グラスのドラマティックな音楽とともに次から次へと打ち寄せられる感情の波、コップにぎりぎりまで溜められた水の、表面張力がはたらいた膨らみがずっとそのままで、最初から最後まで主人公それぞれの気持ちにぴったり寄り添えるみたいな、こんなにエモーショナルな体験をしたのははじめてだった。

 

It’s on this day, this day of all days, her fate becomes clear to her.
ほかでもないその日、その日一日で彼女は自分の宿命を知る。- 映画「めぐりあう時間たち」

 

朝食をとる時間も惜しむほど、目覚めてすぐ執筆に夢中になっていたヴァージニア・ウルフは、そこまで書いたところで部屋に入ってきたメイドに中断される。ひとつの文章のはじまりから終わりまで、頭に儚く浮かんだフレーズを少しずつなぞるように濃くしていく、急がなくてはひとつ前の単語がぼやけて消えていってしまう、たよりない文字のつらなりを、口先で反芻させてもどかしく紙の上に拾っていく。ひとつの単語、それが心に浮かんだその一瞬のなかにすべての物語がつまっていて、だからそれを失ったらぜんぶ消えてなくなってしまう、そのくらい緊迫した世界に彼女は生きていて、それが破られることいちばんにおそれている。邪魔が入ること、ペンを握っているときだけではない、その手前につらなるすべての瞬間が、それらをつなぐ思考の流れが、なんらかの形で中断されることを。彼女も、わたしも。

もしくは1950年代のアメリカで、主婦のローラが誕生日の夫のために意気込んでつくったバースデイ・ケーキの、できあがりのそのみすぼらしさ。そのことに触れられるだけですべてが崩れてしまいそうな、この先「ケーキ」という言葉を聞いただけで人生が終わってしまいそうな、脆い心。もの言えぬ幼い子どもの眼差しにつらぬかれるだけで、簡単に崩れてしまいそうな。

そんなことすべてが瀑布のように心に流れ込んできて、ひたひたの感情に飽和状態になりながら、それでもさあっと霧が晴れたような明るい瞬間があった。現代を生きる3人目の主人公、クラリッサの娘ジュリアがあらわれた瞬間だった。

友人のために自宅でパーティーを開こうと準備に取り掛かるクラリッサ、そこに予定時間より早く知り合いが訪れ、またすぐに去っていく、そのことで過去の記憶に溺れ動けなくなっていた彼女のもとに、マフラーをたなびかせながらバタバタと部屋に上がり込むジュリアの躍動、若さ、適当に束ねた髪の毛とバギーパンツ、ぶしつけでまっすぐな回答、ごついワークシューズを履いたまま母親と共にベッドに寝転がる、そのときのからっとした客観性といたわりの心(「ロミオ+ジュリエット」を観て以来わたしのティーンエイジ・クラッシュだったクレア・デインズが演じていたことも大きかったと思う)。

 

「人生でいちばん幸せだった瞬間はいつだったってあなたに聞かれたら……」
「わかってるよ、ママ。遥か彼方の昔でしょ」
「そうね……」
「誰だって一度は若いときがあるんだよ」

 

今朝、車にエンジンをかけにいく前、出かける準備がなかなか進まないふたりにイライラして、今年はじめての怒りをぶつけてしまった(まだはじまって数日だというのに)。急にすべてが嫌になり、肩にかけていたかばんをおろし、コートを脱ぎ捨て、和室に敷いたままのマットレスに倒れ込んだ。いつもは開け放しているふすまをぴったり閉じ、布団をあたまからすっぽりかぶって。

小さな6畳間、壁一面に並んだ本棚の本、古い木製の作業机と母から譲り受けた北欧のチェア。ようやく手に入れた!と思っていた『自分だけの部屋』で、それでも思うように仕事はできず、いつもリビングとひと続きにしたままぽっかり空いた空間になっていた。それでも年末にここで寝起きするようになってから、だんだんと自分の場所、という感覚を持てるようになってきたのだった。今年はここで書けるかもしれない、いつも家から逃げ出すようにショッピングセンターに駆け込んでいたけれど、うまくいけば、これからはここで。

そんなことを考えていると、ふすまがスッと開いてオンが入ってきた。まだ寝巻き姿のまま、おもむろに布団のなかに潜り込んでくる。「ちょっとちょっと、着替えてって言ってるのに……」と言いながら、オンの体温に心がゆるんで思わず笑ってしまう。同じ枕に頭を載せたオンはわたしをじろっと見つめたあと、おかしそうにこんなことを言った。さっきまでわたしのせいで泣いていたのに、子ども心のこの柔軟さ。

「きっちゃんはさあー、いつももう少し待ったほうがいいよ。待つ前にあれこれ言うから、だめなんだって。ちょっと待てばこんなにいいことがあるんだよ? いまみたいに」−−−

*

3人はむずかしい。でも3人は、De La Soulが歌うように魔法のナンバーでもある。日本にも昔から「三本の矢」とか「三人寄れば文殊の知恵」といった言葉があるし、ビジネスの世界でも何かをはじめる際には3人のチームを作るのがよい、という記事をどこかで読んだ。そのおもな理由は、3人が最小単位の「社会」だから。ふたりきりでいるときには、どちらかがリードして、どちらかが受け入れ、もしくはその役割を順番にくり返しながらいつのまにか調和がとれていく。たいていのことが予定通りに進む、慣れきった安心の世界。でも3人だとそうはいかない。必ずしも自分だけが中心ではない、もしくは相手に完全に身を委ねるでもない、もうひとつ別の視点が生まれる。

ひとりきりであてどなく漂い、ふたりきりで築きあげた閉じた世界の扉を無遠慮にがらり、と開く3人目の存在。そして、それに続く複数の。切れ目のない意識の流れをぶつっと中断する、ともすれば場違いにも思えるそんな存在こそが、あたらしい何かを、それ以前に心の健やかさをもたらしてくれるのかもしれない。たとえばそれは、予定時刻よりずっと早く、もしくはとっくに終わったあとでパーティーにふらりとあらわれる世間知らずの客みたいな誰か。

たぶん、わたしにできるのは、そうした存在をひたすら待つことなんだろう。待ったらいいことがある、そのいいことがなんなのかはまだ知らない。どのくらい待てばいいのかもわからない。自分だけの部屋で、それでもふすまは少し開けたまま。

短い冬休み、年が明けるとあっというまに新学期がはじまる。ずっと家族でいることに慣れてしまったから、オンではなく大人のわたしが新学期を迎えるのがこわい。初日は、親子みんなで獅子舞を見たあと、クラスの保護者でミーティングをすることになっている。会場は、そこからいちばん近い我が家になった。パーティではなくミーティング、それでもわたしがホストになって10人以上の大人たちを家に迎え入れるのだ。

カップの数は足りるかな、どのお茶を出そうかな、少し圧倒された気持ちになりながらも、とりあえず花だけでも買っておこう、ダロウェイ夫人みたいに、花は、わたしが。

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