twililight web magazine
人といることの、すさまじさとすばらしさ
きくちゆみこ
この連載は、『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』のきくちゆみこさんが、新しく引っ越してきた郊外の団地にて、長年苦手としてきた「人とともにいること」の学びと向き合いながら、日々の出来事を書き綴っていきます。
第8回「枝の上の小鳥たち」2025年3月𓅪日(木)の日記
そうしたハプニングの意義は、まさにそれらが意味をもつという点に、その人の人生においておおきな役割をはたすという点に、かかっているのです。シンクロニシティとは、自然の手持ちのカードのなかの、ジョーカーみたいなものです。それはゲームの規則に従わない。
-『シンクロニシティ』/F・D・ピート、管啓次郎訳/朝日出版社/1989
きっと私たちには前世で何かがあったのよ
だから今ここにいる
前世の僕たちの関係は? […]
同じ列車に座ってたかも 切符が連番だった
もしかして—— ある朝 枝に止まった鳥と
その枝だったかもしれない
-映画「パスト ライブス/再会」
玄関を出るときにはまだ決めていなかった。ラップトップと、図書館で借りた本を5冊突っ込んだ重たいトートバッグは肩から何度もずり落ち、中庭を越えて駐車場に向かうまでにすでにくたくたになっていた。ぐわんと取っ手をひっぱりドアを空け、バッグを後部座席に放り込む。座席に腰を下ろして、ようやくまともに考えることができるようになった。
祝日の木曜、ふだんなら定休日の松樹はやはり午後からお客さんが入ったという。ひとりでいられる時間は2時間、どこへ行こう? 最近行きつけにしているショッピングセンターのベーカリー、しかしイートインコーナーは10時からでまだ空いていない。駅前の安いコーヒーチェーンにはパーキングがないし、すぐ近くのバーガーショップも休みの日は朝から家族でにぎわっている。残るは隣駅に向かう国道沿いある2軒の喫茶店。のろのろと車道に出て、交差点の信号待ちでも迷いながら、国道に向かい、通り過ぎるぎりぎりで手前にある1軒目の店に決める。ほかほかデニッシュにソフトクリームじゃなく、ふわとろメレンゲパンケーキで有名な方の店。
ふたたび重いトートバッグを肩にかけ、店に入ると人が多いのに驚いた。駐車場には空きがちらほらあったので油断していた。でもやっぱり木曜でも祝日なのだ、ほとんどが家族連れで席が埋まっている。あ、失敗したかな、と思いながら入り口に佇んでいると、「1名さまでよろしかったでしょうか、どうぞこちらへ〜!」と店員さんに声をかけられ、立ち去るまもなく席へと案内された。だってそうだよ、他の店に行くにしても時間がもったいない。
タイムリミットを気にせず外に出たのはいつだっただろう、オンが生まれてから、いや生活を共にするパートナーができてから、わたしはどこにいても帰り時刻を気にしている。わたしがいくら遅くても松樹は怒ったりしない、というかほとんど気にもしない、食事が必要なのか、先に寝てていいのか、淡々と質問してはその答え通りに動いてくれる。それにオンを母たちに預けている夜などは、0時を回っても誰も気づかない、気にしない、それでもわたしの体内時計は勝手にアラームをセットして、時を刻むごとにそわそわと急ぐ気持ちが湧いてくる。そもそもこれは子ども時代に由来しているのかもしれず、まわりのみんながゆるやかな門限で公園やお祭りや打ち上げなんかを楽しんでいるなか、ひとり腕時計をはめた手首をひねって気もそぞろになっていた経験が体に染み付いているのかもしれない。
「こちらの席ではいかがでしょうか!」 店員さんに案内されて向かった席ははじっこで、あ、うれしい、と思って座ろうとした次の瞬間、隣に座っていた家族と目が合った。
「あ!!えーーー!? あははははは!!」
驚きとおかしさがいっぺんに湧き上がり、互いにしばらく声をあげて笑っていた、というのもそこに座っていたのはオンのクラスメイトの家族だったからだ。人はこんなふうに驚いたとき、思わず爆笑してしまうものなんだな、と思った。とはいえ笑っていたのはわたしとその夫妻の大人だけ、子どもはきょとんとした顔でそこに座り、「オンは? オンはいないの?」と聞いてきたのだった。
「うん、ええと、オンは松樹とおるすばん、わたしは仕事に……」
と、わたしはすぐにひとりでいることを弁解したい気持ちになり、トートバッグも肩からずり落ちた。
「おお〜、やっぱりここよく使うの?」
子ども園時代から一緒で、共に都内から引っ越してきたこともあり、父親の方とは仕事ができそうな近隣のカフェ情報なども交換し合っていた。そうそう、とまだ口元に笑いを残しつつ相槌を打ちながら、どうしようかな、家族水入らずのモーニングを邪魔したくないし、わたしも仕事しなくちゃだし、と逡巡していると、辛抱づよくこのやり取りを見守ってくれていた店員さんが、「よかったら別のお席もありますよ〜!」とにこにこ顔で教えてくれたので、「わ、そっか、じゃあそうしようかな、じゃあ、またあとで……」と言いながら奥の席に移動したのだった。
胸のなかで驚きとおかしさをぱちぱちさせながらモーニングメニューを開いていると、「ねえねえ、ちょっとだけいいかな〜」と先ほどの母親がこちらにやってきた。わたしは「うん、もちろん!」とメニューを閉じて、ここに座ってと促した。これまでは互いを「さん付け」で呼び、どことなく遠慮がちに接していた彼女とも、ここにきてファーストネームで呼び合い、タメ口でしゃべれるようになったことでぐんと距離が近くなった。
ばったり、笑っちゃうね、しかも隣なんて! と前のめりになりながら、お互いの近況を報告し合う。そういえばまだどちらも東京に住んでいたころ、京都のホテルでも彼らにばったり会ったことがあった。松樹の大阪での個展の帰り、せっかくならと母たちにオンを託して二人で高野山の宿坊に泊まり、わたしだけ京都に一泊延泊した。翌日の朝、ホテルのモーニングビュッフェにひとりで並んでいると、すぐ横にその家族がいたのだった。動転してゆっくりモーニングを味わう余裕はなかったけれど、別れたあと、なんとなく幸せな気持ちで鴨川沿いを歩いたことを覚えている。たしか関東では明け方近くに大きめの地震があった日で、東京の知り合いの顔を見て安心を感じたのもあるかもしれない。
15分ほど会話をして別れ、慌ててメニューを開いてコブサラダとコーヒーを注文する。それからしばらくケータイを眺め、気持ちを沈めてからラップトップを開き、仕事のメールを返したりした。
*
「シンクロニシティ(共時性)」とは、心理学者のカール・ユングが提唱した概念で、「意味のある偶然の一致」のことをいう。いまではすっかりおなじみの用語になっているけれど、関連書籍を読む限り、主に夢との関連や「虫の知らせ」といったできごとが例として挙げられていて、だからこれは厳密にはちがうのかもしれない。それでもわたしには思わず「シンクロ!!」と叫びたくなるようなこうした偶然の出会いが頻繁にあって、毎回とまどいと高揚感に包まれつつ、その意味が知りたくてしかたがない。とくにここに越してきてからは、以前書いたIKEAでの鉢合わせも含め、団地の遊歩道、生協、ショッピングセンター、ドラッグストア、図書館と、いたるところで知り合いにばったり出会っている。生活圏が同じなのだから当然なのかもしれない、それでも、松樹とお迎え前にダッシュで行った横浜モアーズのハンズで上級生の保護者が買い物をしていたり、母に誘われて急遽泊まった御殿場の宿泊施設で合宿中の学校関係者と一緒になったりと、この1年は頻度や範囲においてもシンクロ率が爆上がり中、いやでも気にかかってくる。
ちなみに東京にいたころは、シンクロの名所といえばやっぱりブックストアだった。「出会い系本屋」と自称する駒沢のSNOW SHOVELINGを筆頭に、学芸大学のSUNNY BOY BOOKSや吉祥寺の百年、そしてこの文章を載せてくれている三軒茶屋のtwililightなど、展示やお買い物でたくさんお世話になっている書店に足を運ぶたび、友人や知り合い、そしてジンを読んでくれている方々など、わ〜っと両手を合わせたくなるような偶然の出会いが何度も起きている。
とくにtwililightでは、『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』の発売記念展示中にこんなできごとがあった。昼間から夕方にかけて来てくれた友人たちとわいわい過ごし、だいぶ人が少なくなってきた閉店数時間前の夜。展示のことは知らず、読書とコーヒーを求めてふらりと入ってきた人と何かのきっかけで話が弾み、インスタグラムのアカウントを交換することになった。プロフィールを開いたところ、共通の友人がひとりいた。それはわたしの高校時代のクラスメイトのKで、彼にとってはかつての仕事仲間だったらしい。それだけでも偶然!と思うのに、Kは翌日、twililightの近所にあるその彼の家に遊びにくることになっているという。わたしも在廊予定だったので、それなら、とサプライズでKを連れてきてくれ、わたしたちは久しぶりに顔を合わせることになった。そしてこの再会をきっかけに、前にもちらりと書いた同窓会のお誘いがまわってきて、『だめだいじょぶ』にも出てくるなつかしいクラスのメンバーや先生たちと十数年ぶりに会うことができたのだった。ちなみにKとは、10年ほど前にも中目黒の裏通りと京急線の電車のなかでばったり会ったことがある。
偶然の出会い、予期せぬ邂逅、思いがけないめぐり合わせ——。そこまで劇的じゃなかったとしても、誰かと不意に出会うことにはどんな意味があるんだろう? もちろんどんな出会いも基本的にはうれしいし、上記のように印象に残るできごともある。それでも本当のところはひとりが好きで、とくにいまはひとりの時間ばかり求めていて、そのあいだに仕事もしたいし本も読みたいし、何より無心でぼんやりしていたい、そんなわたしにとってこうしたシンクロは必ずしも福音とは呼べなくて、あなたの突然の登場にわたしはいつも動揺してしまう。空っぽだった顔に一瞬で表情をつくり、声帯を全力でふるわせてわたしはあなたに向き合う、そのとき見せる笑顔にも交わす言葉にも誓って嘘はなく、だからこそふたたびひとりに戻ったあとではたいてい抜け殻になっている。たぶん醜形恐怖症のせいなのだろう、あとから自分の髪型や服やメイクが完璧じゃなかったことに気づいて、もうひたすらに恥ずかしい。
前回書いたスーパー銭湯の、あの楽園めいた気楽さとは真逆の状態といっていいかもしれない。あそこでは、わたしはまるで露天風呂にランダムに配置された岩のように「どうでもよい存在」として放っておかれる安心があった。何も身につけていない、無防備な匿名性に守られているような感覚が。それは、ほかの誰にも介入されることなく、それでもほどよい緊張感と孤独感を与えてくれる人混みのなかで、自分にあてがわれた時間を全うする、という「自由」でもある。そしてこうしたシンクロ的な出会いは、わたしの自由にひびを入れることになる。
例えば私は独りで街に出るのが好きだ。すれ違うひとたちは誰も私のことを気にしていない。私は喫茶店に入り、ゆったりとした時間の流れの中で原稿を書く。周囲の控えめなざわめきが心地よい。そこでは、各席の客は自分のことを行なっており、互いへの干渉がない。ひとのいない丘で寝そべって自然の中の自由を満喫する若者のように、私は喫茶店の孤独の中で自由を楽しむ。私を妨げるものはなく、私はただ自分のやっていることをやればよい。
私の自由に亀裂が入るのはいつだろうか? […]
数人の客にまじりながら私は自由を享受している。そこに「あ、こんにちは」とあなたがやって来る。こうなると私はあなたのことを気にしないわけにはいかない。そして、何を語るか予測できないあなたのほうへ意識を向け、予想の範囲に収まらないそのつどのあなたの行為へいちいち応答せねばならない。要するに私はあなたの自由に振り回される。それゆえ一般に、あなたといることは私を疲れさせる。
『日本哲学の最前線』/山口尚/講談社現代新書/2021
上の引用は、分析哲学者・青山拓央の『時間と自由意志』という本の解説だ。青山氏が展開する「二人称の自由」という概念について、具体例を用いてわかりやすく説明してくれている(ちなみに元の書籍もめくってみたけれど、わたしにはむずかしくて歯が立たなかった)。喫茶店でひとり時間を楽しんでいる「私」に、知り合いである「あなた」が突然声をかけてくる、というよくあるシンクロ的なワンシーン。これだけ読むと、自由が失われる瞬間について書かれているように思われるかもしれない。わたしも読みながら、途中まで「そうそう!」と前のめりで頷いていた。それでも実際にはちがうのだ。実はこの、わたしの自由を阻害するかに思える「二人称のあなた」という存在こそが、わたしに自由を与えてくれるというのだ。それがこの議論のポイントで、読み進めるうちに、とまどいながらもわたしはガーンと衝撃を受けたのだった。
たとえば他の客のように「彼・彼女」として客観的に描写できる「三人称」的な存在は、わたしに干渉せず、なんの影響も与えない。しかし、わたしのことを知っている「あなた」は、わたしに気づき、わたしに声をかけることができる。「あなた」のなかには、わたしに「声をかける」という自由な意志があり、それこそが「自由の原型」なのではないか、とここでは説明されている(のだと思う)。翻って考えれば、わたしもあなたにとっての「あなた」であり、そうした「二人称的コミュニケーション」に参加することが、人間の自由意志の存在を認める第一歩になるのだと。
わたしが「わたし」と言っているばかりでは到達できない、深い意味での自由がある、周囲の人々を「見知らぬ誰か」と遠巻きに認識しているかぎりは、得られない本当の自由が。そして、それを与えてくれるのは、わたしを困らせ、わたしを疲れさせるような「あなた」という存在なのだ——。
*
時計を見るともう帰る時間、本は一冊も読めぬまま、ラップトップをケースにしまってトートバッグに突っ込む。冷えたコーヒーを飲み干して店を出る。例の家族は先に帰ってしまったようだった。
松樹とオンをピックして、松樹を店に送るために東京へ。少し時間があったので3人でひさしぶりに目黒の不動尊に寄る。オンもわたしもお気に入りの不動明王をお参りしたあと、裏にある大日如来や観音像などをのんびり拝みながら散歩。広々とした境内は気持ちよく、濃いピンクの桜がちらほら咲きはじめている。ふと、昔の人たちにとって、ここはきっとテーマパークみたいだったんだろうな、と考える。毎月28日にはいまでも縁日が開かれ、お祭りのように屋台がずらりと並ぶ。松樹と出会ったばかりのころ、ここに連れてきたかったんだと誘われて、ふたりで焼き鳥とビールでいつまでも話をした夜があった。ちなみに縁日とは、仏さまとの深い縁を結べる日のことをいう。不動明王の28日のほか、地蔵菩薩は24日、観音菩薩は18日など、それぞれ特定の日にちが割り当てられているらしい。
韓国の言葉にあるの 「イニョン」よ
意味は「摂理」または「運命」
特に人との関係を意味する言葉よ
仏教からくる考え方だと思う それに 輪廻転生ね
「縁」なのよ 見知らぬ者同士が道で すれ違いーー
袖が偶然 軽く触れたら…
それは2人の間には きっと前世で何かがあったから
もし 2人が結婚したら
8000層もの「縁」が結ばれたからなのよ
8000回もの前世を重ねて
-映画「パスト ライブス/再会」
すぐ近くにある五百羅漢寺のカフェで昼ごはん。自動ドア近くの席しかなく、人が出入りするたびに風が冷たい。お会計のために入り口近くのカウンターに来た家族が、立っている場所が悪いのか何度もドアを開けていて、ちょっといらいらしてしまう。
そういえばこんなシンクロもあった。数年前のゴールデンウィーク、まだコロナの余波で人の少ない地元の海でのんびりしていると、どこからかタバコの煙が流れてきた。どうやらすぐ近くのパラソルの下にいる子連れ家族の父親が吸っているらしい。ここは禁煙のはずだし、近くに子どももいるのに!とキッとにらみつけても向こうは気づかない。プンスカしながら場所を移動し、もやもやした気持ちでオンと松樹が貝拾いにいそしむのをぼんやり見つめていた。しばらく経って、車で橋を越えて城ヶ島に移動し、お昼を食べようと小さな定食屋に入ると、案内された隣の席にくだんの家族が座っていた。さらにその後、駅近くの大型スーパーに夕食の食材を探しに行くと、鮮魚コーナーでその家族がわいわいと刺身を選んでいるところに出くわしたのだった。いったいなんの因果だろう、と思った。
いまでもこの時のできごとを思い出す。わたしがいっとき、一方的に強い悪意を向けた相手のことを(わたしにとっては、その煙こそが相手からの悪意だと受け取ってしまったわけだけれど)。定食屋でもスーパーでも、当然だけど父親はもうタバコを吸っておらず、楽しそうに子どもたちと接していて、もやもやから立ち直れない不機嫌なわたしのほうがなんだかずっといやな人間みたいに思えたのだった。
こうしたことはしょっちゅうある。ほとんど悪人のように思えていた誰かが、また次の瞬間にはとつぜん聖人のような顔をしてこちらにやってくることが。先日も、ちょっと気まずい関係になっていた人がいて、そのことを松樹にさんざん愚痴っていたら、数時間後に当人から思いやりのある親しげなメッセージが届いて、早急な判断を下した自分を恥ずかしく思ったばかりだった。
エッセイ第6回目に書いていたオンの言葉が、いまこそ重く響いてくる。
「きっちゃんはさあー、いつももう少し待ったほうがいいよ。待つ前にあれこれ言うから、だめなんだって。ちょっと待てばこんなにいいことがあるんだよ——?」
ユングのシンクロニシティの説明には、「一見因果関係がなさそうな複数のものごとのあいだに意味を見出すこと」とあった。ユング研究の第一人者である河合隼雄は、それを「物語」とも言い換えている。ばらばらに思えるひとつひとつのできごとを星座のように繋ぎ、自分だけの物語を見出すこと。そしてこれこそが人生なのだと。
あともう少し待ったら、わたしにも意味がわかるだろうか。数年前、数日前、数分前には、わたしを困らせてくるとしか思えないようなできごとでも、まるで星と星が線で結ばれていくかのように、あれは福音だったのだと思えるようになる日がくるだろうか。それは必ずしも好ましい相手じゃないかもしれない、贈りもののかたちをしてはいないかもしれない。本来は大日如来の化身である不動明王みたいに、わたしをこわがらせるものなのかもしれない。たぶん、わたしは待たなくちゃいけないんだろう、またあたらしい物語を描くために。いくつもの鳥たちが止まってはまた飛び去っていく、ささやかな小枝みたいじっと。
*
そんなことをぼんやり考えながら、オンを寝かせた夜、Netflixのリアリティシリーズ「オフライン・ラブ」を3話まで一気見する。MCが小泉今日子と令和ロマンというのに惹かれたのもあるけれど、「10日間を異国の地で過ごす若者たちが、運命の力だけを頼りに恋をする」という触れ込みが気になっていたのだ。スマートフォンなどのデジタルデバイスはロッカーにしまい、同じ参加者との偶然の出会いを求め、ガイドブックを手に土地勘のないフランス・ニースを巡り歩く。連絡手段は、みんなのハブとなっているカフェでの手紙交換のみ。ようやく出会えて次の約束を取りつけたとしても、待ち合わせの場所にうっかり遅れたら会えないかもしれない。
おしゃれすぎていまいちハマれないな〜と思いながら1話の途中まで見ていたら、ちょうどシューゲイザーっぽい浮遊感のあるギターノイズがギュイーンと流れてきて、それで一気に心をつかまれてしまった。夕暮れの街に佇み、「今日は誰にも会えないかなあ」とつぶやく姿、人がいなくなった海をひとりで静かに見つめる横顔。そんなエモいシーンを目の当たりにして、こちらはもう、あなたと出会ってしまったよ、と勝手な錯覚に陥っている。
スクリーンの向こう、関係性の編み目をいくつも辿った先にいる人たち。本来なら関わるはずもなかった「あなた」たちに、一方的な親しみを覚えてしまう気まずさと小さな暴力性を感じながら、それでもこうして個人の物語を共有してもらえることにいつもありがとうの気持ちでいる。自分の現実を生き切ることになんだか疲れてしまった夜には、別の誰かの現実が、遠いあなたの物語が、大きな救いになることってあるんだよ、と思いながら、突然やる気が湧いてきてテキストエディットを開く、わたしの物語もきっと、いつかまた別の誰かの。
Share:
プロフィール

文章と翻訳。2020年よりパーソナルな語りとフィクションによる救いをテーマにしたzineを定期的に発行。zineをもとにした空間の展示や言葉の作品制作も行う。主な著書に『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』(twililight)、訳書に『人種差別をしない・させないための20のレッスン』(DU BOOKS)などがある。現在はルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーに取り組みつつ、新しく引っ越してきた郊外の団地にて、長年苦手としてきた「人とともにいること」の学びと向き合っている。
バックナンバー
-
第8回「枝の上の小鳥たち」2025年3月𓅪日(木)の日記
2025.04.04 -
第7回「お風呂のパラダイス」 2025年2月♨︎日(火)の日記
2025.03.03 -
第6回「Three is the magic number」 2025年1月𓆙日(水)の日記
2025.01.13 -
第5回「ときにはストレンジャーになって」2024年12月✞日(水)の日記
2024.12.23 -
第4回「ていねいさと親しさのあいだで」2024年11月☂︎日(土)の日記
2024.11.18 -
第3回「名前、人をつなぐ呪文としての②」2024年10月☽日(金)の日記
2024.11.04 -
第2回「名前、人をつなぐ呪文としての①」2024年10月✴︎日(日)の日記
2024.10.21 -
第1回「秘儀は赤い道で起こる」2024年9月♡日(水)の日記
2024.10.07