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2025.05.08更新

人といることの、すさまじさとすばらしさ

きくちゆみこ

この連載は、『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』のきくちゆみこさんが、新しく引っ越してきた郊外の団地にて、長年苦手としてきた「人とともにいること」の学びと向き合いながら、日々の出来事を書き綴っていきます。


第9回「花の陰」 2025年4月🌸日(金)の日記

桜の花ひとつひとつが
星にも人にも見えてくる
もうすでにすべて恋しい
– tweeted at 9:56 pm on April 4, 2020

朝6時半、起きてすぐに部屋中の窓を大きく開け放つ。いつもは敷きっぱなしの布団を、全身で覆いかぶさるように大きく三つに畳んだ。その上に、掛け布団を二つ折りにしてまた全身でどすん。新年度から朝ごはんとお弁当を担当すると、オンと松樹の前で高らかに宣言していたのだ。とはいえ早寝ができるわけでもなく、睡眠時間5時間未満の頭はもうろう、この眠気をふり払うには格闘技でもするみたいに大げさに体を動かすしかない。

それにしても、「もう起きる−あと少し寝る」の終わらない綱引きに、どれほど人生を左右されてきたことだろう。そもそも綱をつかむ気力すらなく、布団に転がったまま夕暮れを迎えた日々の記憶はぜんぜん遠くないけれど。人が何かを決める瞬間にはたらく、あの神秘的な力はいったいどこからやってくるんだろう? 眠い、寝てたい、でも起きなくちゃ、と這うように布団から出るその直前、わたしのなかでは何が起きているんだろうか。

意志というのは案外、心じゃなくて体に結びついているのかもしれない。どんなにしんどくても、ひとたび起き上がりさえすればこっちのもの、そんなことをあたらしく学ぶ40代の春。

オンの部屋の窓を開けにいくと、遠くの並木で桜が満開になっていた。白ともピンクとも呼べない、光そのものみたいなソメイヨシノがまぶしくて、その瞬間、完全に目が覚めた。ふと、大学時代の恩師の言葉が頭をよぎり、またすぐに通り過ぎていく。

「いいか、文学っていうのはな、りんごを齧って誰かを思い出すことだ。桜を見上げて、ちょっとだけ泣くことなんだ」

もう会えないはずの人と、それでもふいに記憶のなかで出会ってしまう、そのときの胸のちくちくには永遠に慣れない、慣れる気がしない。オンが布団のなかでもぞもぞ動いて、わたしは「おはよー!」と声をかけた。

2011年の春、先生は突然の病で亡くなった。東日本大震災のすぐあとのことだった。わたしはその1月に、私情のもつれから逃げるようにアメリカを離れたばかり。卒業してから5年も経つのに肩書きも成果もない自分が恥ずかしく、先生と連絡を取るのをためらっていた。あと1年、いやあと3年くらい経ったら合わせる顔ができるかも、なんて、ほんとうはものすごく焦っていたはずなのに、綱をつかむことを放棄して、モラトリアムばかりをぐいぐい引き延ばしながら生きていた。

そういえば、先生はアメリカバイソンが好きだった。布団のなかでうずくまるオンを見ながら、そんなことを思い出す。休日に上野動物園を訪れては、柵越しにバイソンとひっそり語り合うのだと、授業の合間に話していた。実際には日本生まれだった上野のバイソン、それでも彼らの故郷アメリカの大草原に想いを馳せながら。大自然を象徴する聖なる動物として先住民たちに崇められていたバイソンは、ヨーロッパからの入植者たちの乱獲により、一時は絶滅寸前にまで追い詰められたという。一方、先生の話し相手だったバイソンは、先生の死から2年後、老衰のため永眠したとニュースで読んだ。

ひと通り換気を終え、さっぱりした気持ちでキッチンに立つ。パンとできあいのスープの簡単な朝ごはん。オンは団地のパン屋で買ったお気に入りのうさぎパン(クリームチーズ入り)、半年前からグルテンフリーを続けている松樹には、豆粉のパンのストックがある。わたしは白湯をちびちび飲みながら、冷蔵庫に頭を突っ込みお弁当の食材を取り出した。春休みも終盤、今日はクラスのみんなでお花見なのだ。

ふりかけ頼みのおにぎりをふたつ、豚バラとスナップエンドウの醤油炒め、昨晩作った切り干し大根と大葉の梅和えをそれぞれ大きいタッパーに詰める。ピクニックシートを持って、近所の公園へ。最近はほとんどの集まりが徒歩圏内で完結する(それも10分かからない)。その便利さにささやかな倦怠感を覚えつつ、これでバスだ電車だとなっていたらもっと億劫だったかもと、遊歩道をオンとずんずん進んでいった。

*

この場所に引っ越すことを決めたのは、オンの進学前の秋だった。いままで暮らしていた目黒の部屋よりもずっと広い間取りにときめきながら、それなりにくたびれた昭和の団地の外観と、11月のどんよりとした曇り空に気圧され、なんとなく浮かない気持ちで東京に戻った。バスと電車を乗り継ぎ、ようやく目黒駅に着いたときにはくたくただった。オンの学校を選んだのはわたしだから、間接的には自分がここで暮らすことを選んだと言ってもいい。それでも自分の人生が、急に小さな箱のなかにしゅるしゅると回収されていくような感覚があった。

数週間後、手続きのためにひとりで再訪したとき、思い立ってこの公園まで歩いてみた。周辺には気軽に歩ける範囲でざっと5つの公園がある。なかでもここは最も広く、いちばん緑が多かった。突き抜けるような晴天の日、枯れてまばらになっていた芝生が銀色に輝き、裏山からさーっと風が吹き抜けてくる。わたしは目を閉じて、「あ、ここにいる」と思った。神さまとか天使とか精霊とか、そうした聖なるものたちにまじって、「たしかにわたしがここにいる」と。

ログハウスが光のなかでしんと佇み、その奥には野球のグラウンドが広がっている。わたしのほかに、いま、ここにはだれもいない。そのこと自体が恩寵と予感に満ちていて、同時にわたしは、目には見えないたくさんのものたちに囲まれてそこにいた。その日から、この場所での暮らしが少しずつ楽しみになっていったのだった。

お花見と言えども、この公園にはソメイヨシノと八重桜が一本ずつあるだけ。とくにソメイヨシノはまだ若く、ほっそりとした枝の先にぽつんぽつんとかわいらしい花びらをつけていた。その下にはシートが2組、先に来ていた子どもたちが走り回っている。オンはふたりのあいだに飛び込むように肩を組み、「はなみだはなみだ!」とはしゃぎながら、3人でそのまま芝生に寝転んだ。わたしはばさばさと自分のシートを広げ、オンを見守りながらふーっと息をついた。

というのも前回クラスメイトたちと集まったとき、オンはなぜだかうまくなじめず、みんなとお昼を食べられなかったのだ。親たちは気にかけてくれたし、オンは翌日にはもうさっぱり忘れているようだった。でも、わたしはすべてを来世まで引きずるタイプの人間、春休み中ずっとそのことで心が重く、だから今日はここに来ることがこわかった。まだまだ先の長い学童期を思うと気が遠くなる。いまのわたしは、自分が傷つくよりずっとオンが傷つくのがこわい。

ばらばらと親子が集まってきてはシートを広げ、子どもたちはわーっと丘の上に冒険にでかけていった。残された親たちは、すかさずケータイとスケジュール帳を取り出して青空ミーティング。もうすぐ新学期、保護者2年目になったわたしたちは、新入生保護者たちを迎える準備に追われている。

ふと顔を上げると、もう一方の桜の下に、見知らぬ人たちがひとまわり小さい円をつくっているのが見えた。ヒューっと風が吹き、落ちてきた花びらとともに自分の円に向き直る。去年、子どもたちを通じて出会ったころには、みんなあかの他人だったのに。いまでは花の下、並べたシートにのんびり寝転び、談笑しながらお菓子をつまんで、あれやこれやと話し合っている。

花の陰
あかの他人は
なかりけり
cherry blossom shade-
no one an utter
stranger
小林一茶/デヴィッド・G・ラヌー訳

4月はイベントが盛りだくさんで、学用品をつくる講習会に勉強会、活動グループの紹介、ポットラックパーティーと、昨年は迎えられる側として参加しながら、強烈な懐かしさに包まれていた。まるで大学時代の新歓みたい、と思った。

学生時代、キャンパスは新歓ムードでいっぱいだった。中学高校と熱心な帰宅部だったわたしにとって、ずらりと並んだ部活やサークルのブースは未知の世界への入り口だった。入学式でなんとなく知り合った女の子たちといくつかのブースを訪れ、飲み会に参加し、酔っ払った先輩たちから活動内容(と、それ以上に人間関係)を聞き出した。

何より新鮮だったのは、自分で選べる、ということだった。長くて4年、あるいはOG・OBとしてもっと長く付き合うかもしれない仲間を、自分で決めることができるのだ。もちろん中高でも部活の選択は自由だけど、そこには運動能力や協調性を育むといった学校側の意図が強くあって、「誰といるか」という視点はあまりなかったように思う。でも大学の課外活動には、たぶんそれ以上の目的があった。

たとえばそれは、授業の合間にふらりと立ち寄れる場所を持つことだったり、重たい辞書やかさばるコートなんかの保管スペースを確保すること、楽にパスできる授業や過去問の情報を共有すること、組織の運営やイベントなどの企画にたずさわることだったりした。そして何より、人と出会い、人と関わり、ともにいるための練習の場でもあった。少なくとも、わたしにとっては。

実際、放課後の活動やだべりにとどまらず、学期ごとの打ち上げや長期休みの合宿、クリスマス会、忘・新年会、歓送迎会、お花見……と、一年を通じて当たり前のように時間をともにするのが、大学の部活の人たちだった。これまでわたしには、そんなふうに付き合う人たちはいなかった。

絆とかチームとか団結とか、集団行動にまつわるこうしたワードは、口にするだけでいまでもぶるぶると震えてしまいそうになる。それは自分が「ひねくれもの」だからなんだろうと、その言葉の意味も知らないうちからずっと感じていたけれど(日曜洋画劇場で見た、アダムスファミリーのウェンズデーみたいに)。でもわたしはうらやましかったのかもしれない。きょうだいも親戚づきあいもなく、地縁もない場所で育ってきたせいか、わたしはこんなふうに年間行事をともに過ごすグループをたぶんどこかで求めていたんだと思う。

自分から声をかけなくても当たり前みたいに声がかかる、あるいは声かけの必要すらなく、すでに「メンバー」に含まれているという安心感。いつもなんとなくそこにいる存在、とくべつに注目を集めなくても、そこにいることに疑問を持たれることはないみたいな。そう、むしろわたしはカーソン・マッカラーズの主人公たちみたいに、自分を「メンバー」と認め、受け入れてくれるようなグループをひそかに求めていた。「わたしたち」と呼べるような仲間たちを。

こうしてわたしはひとつの部活を選び、そこで4年間活動した。桜の季節になるごとに新しいメンバーを迎え、あらゆるイベントをともにした。でも、現実には「なんとなくそこにいるだけ」なんて無理な話で、人間関係のもつれや、社会人の予行演習みたいな慣習に何度もうんざりすることになったのだけれど。問題が起こるたび、「やめる−やめない」のあいだを行き来しながら、それでもけっきょく最後までそこにいた。あのときわたしは、たしかに綱をつかんでいたんだと思う。いまはどうだろう?

*

夜8時すぎ、車内から眺める金曜の目黒川は、やっぱり人であふれ返っていた。夜間は割安になる駐車場に車を停め、後部座席からジャケットを取り出して羽織る。この時期、夜は想像より上着一枚ぶん寒い。

お花見のあと、オンは母たちとお泊まりで三崎に出発した。わたしはぽかんと開いたひとり時間、休みのあいだに溜めこんだ仕事をあれこれ片付け、そのまま疲れて寝てしまった。オンたちが家を出たのは14時半過ぎだったから、公園には朝から4時間ほどいたことになる。いつも、人といたあとはそれと同じくらいの時間を休まないとまともに動けない、充電が完了しない。それでもふと、カーテンを開けっぱなしにした窓の奥の夕闇がさびしくて、わたしは車のキーをつかんで外に出た。どこへ行こうと考える間もなく、都心に向かう道を走っていた。

夜の第三京浜はすかすかで、車道を走るタイヤのゴーッという低い音が体に響いてくる。料金所を通過し、いつもうっかり間違えそうになる分岐を右に進み、目黒通りへ。ハンドルを握る両手に自然と力が入る。なんだか空港のイミグレーションを抜けるときみたい。夜の東京を、ひとり車で走るのははじめてだった。大鳥神社の交差点に差し掛かると、人の数が急に増えてくる。かつてはうろうろと歩きまわっていた場所を、こうして一瞬で通り抜けてしまうのはなんだかばつが悪かった。

腕を組みながら歩くカップルや、ケータイを掲げて写真を撮る家族連れ、飲み物を手に笑い合う若い人たち。そのあいだにすっと体をすべり込ませ、ひとりで川沿いを歩く。視線を少しでも落とすと圧迫を感じるほどの混雑で、わたしは顔を上げ、8分咲きになった頭上の桜だけを見つめながらずんずん前へと進んでいった。

桜の花ひとつひとつが
星にも人にも見えてくる
もうすでにすべて恋しい
– tweeted at 9:56 pm on April 4, 2020

このツイートを投稿した2020年の春はコロナ禍の真っ只中だった。当時、人が消えた目黒川沿いをわたしは毎晩のようにあてもなく歩いていた。自粛生活が求められ、松樹もオンも朝からずっと家にいた。狭い都心のマンションの部屋、ひとりになれる空間はなく、抑えきれない苛立ちをなだめるように外に出ては、誰かをつかまえてLINEで長電話をした。視線も表情も伴わない、声だけのやりとりが心地よかった。暗闇のなか、静かに光を放つ満開の桜を見上げながら、電話越しの声を頼りにどこまでも歩いていけると思った。

会いたいけど会えない、会えないから会いたい、あのときほど他者の存在をつよく求めたことはなかったかもしれない。あんなふうにじっくりと、ひとりの人の声に、語りに耳を傾けたことは。

「これが明けたらさ、リアルでもこんなふうに語り合おうね」とわたしたちは話していた。「これが明けてもさ、時には電話したりしようよね」

桜が散り、季節がめぐった。そうしていざパンデミックが収束したところで、わたしたちはなかなか会わないし電話もしない。店先でおでこに体温計を突きつけられた日々を奇異のまなざしで振り返り、三密という言葉に感染防止ではなく空海が先に浮かんでくるようになったころには、LINEで📞ボタンをタップすることすらためらうようになっていた。あのとき聞いた声は、もしかして、わたしが頭のなかでつくりだした幻想だったの?

写真を撮ろうとケータイを取り出すと、仕事が終わった松樹からメッセージが届いていた。

「終わったよ、どこ?」
「じつは目黒川、はな見る?」
「いやそれより先にごはん食べたい」

山手通りで待ち合わせ、近くのインド料理屋に入った。空腹の松樹は大盛りのビリヤニ、わたしは冷えた体を温めようとはあつあつのラッサムをすすった。奥のパーティールームでは、10人ほどのグループが歌い出さんばかりに盛り上がっていた。おそらくインド系のコミュニティだろう、親族の集まりかな、と思ったけれど、子どもはいないし、みんな同年代のようだった。

うちの目の前にある団地の集会所でも、週末になるとインド系の住民たちが集まって楽しそうに交流している。パーカーにジーンズといった普段着ではなく、赤やピンクや緑の鮮やかなうつくしい衣装を纏い、みんなで何かのお祝いをしているところをよく見かける。

奥の部屋から歌声が聞こえてきた。川沿いでは、桜だ花見だとたくさんの人たちが外に出ているというのに、彼らはここにいるだけでじゅうぶん楽しそうだった。追加で頼んだベジタブルパゴラをつまみながら、小林一茶の句をまた思い出す。

花の陰 あかの他人は なかりけり

こんなに仲の良さそうな彼らにしても、もともとはあかの他人同士だったころがあったんだろう。目を合わせ、「はじめまして」と言葉を交わすそのひとつ手前の瞬間が。そして桜の下だろうがどこだろうが、人がひとたび集まれば、あかの他人など存在しない——。

松樹がビリヤニの最後のひとくちに、残りのライタをたっぷりかけて平らげた。にこにこ顔の店主が、口直しに、と小さな小鉢を差し出してくれた。カラフルな砂糖でコーティングされたスウィートフェンネルだ。数粒つまんで奥歯で噛むと、あっというまにスパイスの香りに包まれた。わたしはなんだか団地が恋しくなって、食事を切り上げ、松樹とともに駐車場に向かった。けっきょく川には戻らなかった。戻るべき場所は、もう別にあったから。

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