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2025.06.02更新

人といることの、すさまじさとすばらしさ

きくちゆみこ

この連載は、『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』のきくちゆみこさんが、新しく引っ越してきた郊外の団地にて、長年苦手としてきた「人とともにいること」の学びと向き合いながら、日々の出来事を書き綴っていきます。


第10回「共感の先、共感の手前」 2025年5月✚日(土)の日記

ずいぶん前、どこかで読んだ話がいまでも心に残っている。たぶん、河合隼雄のエッセイか対談集だったか、「共感」をテーマに書かれた本だったと思う。手品師が舞台にいる。彼はパフォーマンスの一環として、マッチを取り出し、自分の手のひらに火をつける。ぼっと炎が上がると、観客たちは顔をしかめ、思わず叫ぶ。「熱い!」 そして舞台から目を背け、しばらくその痛みに呆然となる。燃えているのは手品師の手であって、自分の手ではないのに。

舞台と客席のあいだには一定の距離があり、熱はそこまで伝わらない、届かない。それでも一瞬でこちらの体を縮こませ、「熱い!」と言わせてしまう何かがある。「ああ大変だ、痛そうだな、手当しなくちゃ」とケアする側の冷静さを取り戻す前に、体のなかに入り込んでしまう何か。

この「何か」こそが、わたしたちが小説を読み、映画を観て、そこに救いを見出したりすることのよすがになる……と話が続いた気がするのだけれど、出典が思い出せずに記憶は曖昧なまま。それでもこのエピソードは、読んでから10年以上経ったいまも、ふとした瞬間に心に浮かぶ。他者への共感というものが、客観的な知識や理解を超えて、心的・身体的にも共有されうるということを、その不思議を、もっともシンプルなイメージで思い出させてくれるからかもしれない。

*

午後2時すぎ、体じゅうがぎしぎしと痛くて目を覚ます。手にはケータイが握りしめられたまま、画面にはウーバーのGPSアイコンが、ピックアップ先から動く気配もなく点滅している。注文したのはたしか昼前だったはず。待ちくたびれて眠ってしまったらしい。二重窓のせいでほとんど聞こえなかったけれど、外は滝のような雨が降っている。配達員はきっと自転車なんだろう。こんな天気だもの、そりゃしかたない、と思いながらも、熱でほてった体、注文していたカットフルーツがいますぐ食べたくて涙がこぼれてくる。

一度は下がったはずの熱が、今朝から急に上がりはじめていた。本来なら保護者会に出るはずだったので、オンは松樹と一緒にすでに母たちの家へ。松樹は一日中仕事で深夜まで帰らない。昨晩、帰宅途中に「なんかいる? くだものとかジュースとか?」と連絡がきたとき、素直にお願いしておけばよかったのだ。熱が下がっていたのと、毎晩遅いことへの苛立ちが勝って、「いらない、とにかく早く帰って」と突っぱねてしまった。冷蔵庫にはナス、牛乳、コーヒーしかない。だからすがる思いでウーバーしていたのだ、ゴールデンパイナップルとオレンジ、キウイ、いちごが入ったつめたいカットフルーツのパック、2時間前からそのことばかり考えていたのに――言いようのないしんどさが怒りに変わりそうになり、ケータイを放り投げて枕に突っ伏した。

あ、喉が痛いな、風邪ひいたかな、と思ったのが火曜日の午後、翌日にはもう起き上がれなくなっていた。熱は37度台前半を行ったり来たり。それなのにあらゆる関節が痛く、声も出ない。寝ているわたしに慣れっこのオンも、さすがに一日中起きてこないわたしを見て、「どうしたきっちゃん、起きないの?」とふすまの隙間から何度も声をかけてくる。

「熱があるの?」
「うん、いまは37度……ぴったり」と、取り出したばかりの体温計を見ながら答える。一瞬、数字を盛っちゃおうかな、と思ったけどやめた。
「それじゃあいつものオンと変わらないじゃん」
「うん、でもだるいんだよね、とにかくだるい」

だるくてだるくて……とすり切れたゴザみたいな声で答えながら、ふと、この言葉をオンはどう理解しているんだろう、と考える。オンだけじゃない。たとえば松樹にこんなふうに病状を訴えるたび、いつも同じような疑問が湧く。このしんどさ、どれだけ伝わっているんだろうと。

たいして熱も高くないのに全身が痛くて起き上がれない、起き上がる気力がどこにもない。だから寝ていることしかできなくて、でも寝ていることじたいがつらすぎて、この体をいますぐ抜け出したい、手放したい、そんなアンビバレントなくるしさを、その不調の全貌を、「だるい」というたった一言が支えている。そんな切迫感があった。もしこの言葉を知らなかったら、発するすべがなかったら、このつらさのなかに閉じ込められて絶望していたかもしれない。

冒頭のエピソードに出てくる手品師の炎は、舞台と客席の距離を飛び越え、観客の心と体に作用する。マッチを擦って手に火をつけるという行為と、炎の視覚的な衝撃が、瞬時の共感を呼び起こす。でも、「だるさ」にはそんな劇的なセンセーションがない。だるい人とだるくない人のあいだには、強烈な断熱材でも挟まれているみたいに、共有できるものが何もない。平熱すれすれの体温計の数値では役に立たないのだとすれば、唯一頼れるのは「だるい」というこの言葉だけ。でも、それでも、そんな渾身の気持ちで発した「だるい」への返答が「そっかー、じゃあ寝てなきゃね」だったとき、なんとも言えないむなしさを感じてしまう。

子どものころ、学校に行きたくないばかりに仮病を使いまくったことが祟ったのか、はたまた発達に凸凹があるせいなのか。大人になってからのわたしは基本的に体調が悪く、すぐに疲れて寝てばかりいる。それが通常モードであるためか、いざ風邪などをひいて寝込んだときには、そのことに気づいてもらえないんじゃないかという恐れがあった。「だるい」「頭いたい」「喘息っぽい」。かすかな不調を何倍にも盛りつづけなくてはサバイブできなかった学童期を経て、いまそれを口にしてみると、自分が詐欺でもはたらいているんじゃないかという気持ちになってくる。嘘ばかりついてきたことで、自分の信用度を下げつづけてしまったオオカミ少年みたいに。

とはいえ不調のとき、風邪のとき、もしくは心を病んでいるとき、わたしがほんとうにほしい「何か」は、じつは共感でも言葉でもないかもしれないことに、うすうす気がつきはじめていた。もし「わかるわかる、俺もいまめちゃくちゃだるいから」なんて言われたとしたら、よけいにいらいらしてしまうだろう。だから松樹はわたしに必要なものを尋ねていたのだし、今朝は家を出る前に梅醤番茶を淹れてくれていたのだ。

眠ろうにも眠れずに、そんなことを考えながら天井を見上げて数十分、ふいに階段を駆け上がる音が聞こえ、ドアベルが鳴った。ようやくウーバーが届いたみたいだ。置き配にしていたので10秒ほど待ち、階段を降りる音を確認してから玄関のドアを少しだけ開けた。そのとき、ドアノブがいつもより重たいことに気がついた。ウーバーのビニール袋は地面に置かれている。もしかして、と胸がざわざわするのを感じながら、ドアの外に回った。かすかに雨に濡れた紫色の紙袋がノブにかけられていた。

*

カナダでの乳がん治療を綴った西加奈子さんの『くもをさがす』をはじめて読んだとき、胸がぎゅっと締めつけられる思いがした。異国での告知から手術までの日々、それを支えたパートナーや息子、移住した日本人や現地の友人、病院のスタッフ。闘病中の西さんの支えとなった人たちの声がいたるところに散りばめられていて、読んでいるこちらまで「大丈夫やで!」と励まされるような本だった(実際、英語で話されているだろうセリフが、西さん視点ですべて関西弁で訳されていることにも感銘を受けた)。

その中に、Meal Trainという言葉が出てくる。体調が悪く料理ができない西さんのために、友人たちがグループを作り、毎日順番にごはんを届けてくれるという食事支援のシステムだ。調べてみると、Meal Trainという名称は2010年、食事提供のオーガナイズをより便利にしたいという妻のアイディアをもとに、バーモント州のエンジニアが立ち上げたオンラインツールに由来しているらしい。それでも「連なる列車(train)」のように、リレー方式でつぎつぎと支援をつなげるありかたは、以前から世界各地で続けられていたのではと想像する。

私は、デイヴィッドが作ったうどんを食べ、マユコが作ったハンバーグを食べ、チエリが作ったお好み焼きを食べ、ヨウコが作ったおいなりさんを食べ、ナオが作ったキンパを食べ、アヤが作った炊き込みご飯を食べ、クリスティーナが作ったサラダを食べ、メグミが作ったおでんを食べ、ユウカが作ったボルシチを食べ、キットが作った魚のグリルを食べ、ケンタが作った麻婆豆腐を食べ、アマンダが作ったパスタを食べ[…]

『くもをさがす』/西加奈子/河出書房新社/2023

これを打ちながら、朝から何も食べていないお腹がキュルキュルと鳴った(もうすでに体調は回復していて、わたしはいつものパン屋カフェで2杯目のコーヒーを飲みながらこれを書いている)。「〇〇が作った」と作り手の名前が添えられているだけで、ただのメニューの一覧に温かさが生まれ、湯気がぼわんと立ちのぼる。でも、はじめてこの箇所を読んだときには、お腹ではなく、胸がぎゅっと苦しくなったのだった。

当時、わたしはここに越してきたばかりで、うちを訪ねてくれた東京の友人とちょうどこの本の話になった。ライターである彼女は、数カ月前に西さんにインタビューをしたばかりだと言っていた。

「ゆみこちゃんもさ、ここでコミュニティに飛び込んで、Meal Trainみたいなのを経験するかもよ」

知り合ったばかりの近所の面々を思い浮かべながら、たしかに、と思ったのも束の間、わたしはすぐに「いやいや、ないよ!」と首を振って否定したくなった。

でも、日本にいたら、私の方が遠慮してしまったのではないだろうか。自分たちでなんとか出来る、すべきだと、気負ってしまっていたのではないだろうか。それは私の性格というより(私は、人に頼るのがとても得意だ)、日本の風土と関係があるように思う。自分たちで何とかしないと、それも、家族のことは家族でなんとかしないといけない、という考えが、私たちにも染みついているのだ。

同上

だってそうなのだ。ここは日本だし、人が頼るのが「とても得意」だという西さんだって、遠慮してしまうかもと書いているのだ。そしてわたしは、人に頼ることが誰よりも苦手だという自覚がある。

「共感」にこだわり続けてきたわりに、community(コミュニティ・共同体)とか、commune(コミューン・共同生活体)とか、companion(コンパニオン・仲間)とか、ラテン語の接頭辞「com-(=共に)」を含む言葉からイメージされるものをどこか恐れる気持ちがあった。こちらが頼む前からあれこれヘルプが飛んでくる過保護な環境で育ったせいか、ちゃんとしたcommunication(コミュニケーション・やりとり)を通じて、何かにcommit(コミット・責任を果たしつつ関与する)することが求められる場所では、うまくやっていけないと思っていたのかもしれない。その結果、親やパートナーなど、「この人なら」と決めたひとりの人にすべてを任せ、頼り、依存することしかできなくなっていた。日本でも、そして4年間暮らしていたアメリカでもそうだった。

アメリカでの最初の2カ月間、わたしは語学学校に通うために、ロサンゼルスの丘の町にある大学寮に住んでいた。2006年の夏のこと、長期休暇で空っぽの寮にはアジアを中心に各国の留学生たちが集まっていた。わたしはそこで、ふたりの日本人とひとりの台湾人の女の子たちと一緒に生活することになった。

南カリフォルニアのむきだしの太陽の下、肩までこんがりと日焼けして、特大サイズのシェイクを吸い込みながら毎日キャンパスを歩き回っていた。授業が終わった午後、刈りたての芝生を横切って部屋に帰ると、キッチンでいつも誰かが料理をしている。たいていはキャベツとベーコンのお好み焼きか、びん詰めのソースを使ってつくる簡易のパスタ。戸棚に大量に買い貯めた辛ラーメンに卵を落とし、「からい!うまい!」と汗だくになりながらみんなで啜った。

車を買ったというクラスメイトがいたら、みんなでぎゅうぎゅうに乗り込んでスーパーに連れて行ってもらった。1ダースのドーナツ、2ガロンの牛乳、パーティバーレルくらい大きい箱に入ったチョコチップのアイスクリーム。巨大なカートに放り込むそれらの品物は、みんなで分け合うことが前提だった。夜になると、別の棟からひとりまたひとりと留学生たちが部屋に集まってきて、花札やトランプで遊んだり、筋トレをしたり、瞑想のやりかたを教え合ったりした。宿題のショートエッセイを書きあぐねていると、あれはこれはと横からすぐにアイディアが飛んできた。

誰かがタバコを吸うためにベランダの窓を開けると、外からスプリンクラーが水をまくかたかたという音が聞こえてくる。永遠に暗くならないロサンゼルスの夏の夜、オレンジ色の夕焼けは、いつだって想像よりわずかに美しい。スーツケースひとつで異国にやってきたわたしたちには、所有という概念なんてないみたいで、互いに頼り合い、自分が持っているリソースを惜しみなく分け合いながらともに暮らしていた。

そんなにぎやかな寮生活は、夏の終わりとともに幕を閉じ、みんなそれぞれの進学先に散っていった。カレッジがあった新しい街で、わたしはほどなくパートナーをつくり、一対一の閉じた関係に逃げ込んだ。アメリカのドライバーズライセンスを取り、車を手に入れ、ワンルームのアパートメントに恋人を招き入れた。これでもう、他の人たちに頼る必要はない。

わたしは心底満足だった。楽しいことばかりだと思っていた共同生活が、急に色あせて見えるようになった。じつのところ、寮生活中にも、わたしは日本人と韓国人の男の子とそれぞれ時期を違えて親密になり、そのために他の留学生仲間たちとのあいだにギクシャクとした空気が流れはじめていたのだった。

体調が悪いときに世話をしてくれるのも、疲れた夜に料理をしてくれるのも、複雑な手続きを手伝ってくれるのも、ぜんぶ彼ひとりきり。与えてもらったことに気負いして、返さなくちゃと躍起になったり、必要以上に気兼ねして、何かをしてもらいそこねたり。そんなことを気にすることも、もうなくなったのだ。なんて楽ちんで安心なんだろう。むきだしの感情をぶつけても引かれない相手、大喧嘩をくり返しても戻ってこられる場所、たったひとりの、わたしだけの――。でもそんな関係を求めているうちに、共依存に陥り、内側からがらがらと崩れていったのだった。

そして松樹とも同じパターンを辿りそうになったとき、オンが生まれ、いま、わたしはこの団地で暮らしている。

*

紫色の紙袋は、近所の先輩母のMさんが届けてくれたものだった。なかには、りんごジュースの缶とハーブティーのティーバッグ、そして文旦が入っている。ラップで包まれ、レインボーの毛糸できゅっと結ばれた文旦を取り出してみると、半分に切られた黄色の皮が帽子のようにパカっとあいた。外皮から外されていた房をひとつつまんでみると、薄皮が口を開いている。たまたま破れたのかな、と思い皮を剥いてひとつ食べ、もうひとつ取り出して驚いた。すべての房に、ていねいに切り込みが入れてあったのだ。

わたしは剥きやすいその皮をつぎつぎと外し、みずみずしい果肉を口のなかに放り込んだ。一度食べたら、もう止まらなかった。熱った体、腫れ上がった喉、弱ってぐしゃぐしゃになっていた心が、文旦のつめたい甘さでどんどん癒されていくのがわかった。

ぜんぶ食べ終えてしまうと、薄皮を黄色の外皮のなかに戻し、文旦の帽子をかぶせて蓋をした。それからウーバーで届いたフルーツのパックを冷蔵庫に入れ、涼やかさに満たされながらふたたび布団に横になった。いまなら気持ちよく眠れる気がした。窓の外では、雨がざあざあと降りつづいている。

通常、利他的行為の源泉は「共感」にあると思われています。「頑張っているから、何とか助けてあげたい」「とってもいい人なのに、うまくいっていないから援助したい」——。そんな気持ちが援助や寄付、ケアを行う動機づけになるのではないでしょうか。
他者への共感、そして贈与。この両者のつながりは非常に重要です。

-『思いがけず利他』/中島岳志/ミシマ社/2021

ずっと「共感」を求めつづけてきた。共感してもらえないと、わたしのことをほんとうに「わかって」もらえないと、誰もわたしのことなど気にかけない、助けてくれない、そう思い込んできた。だから感情を爆発させ、体を重ねてすべてを共有できるような関係に固執した。燃える手のひらを突き出して、「ほら、見て! こんなに燃えてるんだよ!」と。目には見えないし、言葉にしづらいけれど、わたしは常にたくさんの困りごとを抱えていて、誰かの支えなくしてはうまく生きられないことがわかっていたからだ。

しかし、一方で、注意深くならなければならないこともあります。共感が利他的行為の条件となったとき、例えば重い障害がある人たちのような日常的に他者の援助・ケアが必要な人は、どんな思いに駆られるでしょうか。
おそらくこう思うはずです。——「共感されるような人間でなければ、助けてもらえない」

同上

でも、今回わたしを助けてくれたのは、燃えるような共感の熱ではなかった。よく動く手足を持った人たちの、しずかな行動だった。大雨のなか、傘を差しながら赤みちを歩き、団地の階段を上るMさんの姿を想像する。文旦の一房一房に、迷いなく切り込みを入れていく手を。

今日だけじゃない。昨日も、その前の日も、わたしはすでにたくさんの人たちに助けられていた。隣町に住んでいるクラスメイトの母が、腫れた喉にいいはずだからと近所の農園で低農薬のいちごのパックを買い、車で届けてくれた。団地で暮らす父母たちは、お迎えに行けないわたしの代わりに、見事な連携プレイで学校からオンを引き取り、桑の実摘みに連れて行き、家まで送り届けてくれた。「これ、Rちゃんからだって!」とまた別の母がつくった自家製酵素ジュースも一緒に。

みんなは、わたしのすべてを完璧にわかっていたわけじゃない。ただ、「知っていた」のだ。わたしが体調を崩していて、起き上がれず、困っている、ただそのことを「知っていた」。それだけじゃない、彼らはみんな、すぐ近くに住んでいる。徒歩で、車で、駆けつけるのを厭わない距離に暮らしている。センセーショナルな炎で飛び越える必要もないくらい、すぐそばに。

コミュニティというものを、どう捉えたらいいのかはまだかわからない。口にするのもこそばゆいし、コミュニケーションやコミットメントを、しんどく感じることもある。与えられることに慣れなくて、わたしには何ができるだろうと、引け目を感じて、足がすくむ、手が止まる。それでも、わたしには知っている人たちがいて、とにかくみんなの近くに住んでいる。そのことがいま、とても大切な気がしている。19年前の夏、ロサンゼルスの丘の町で、みんなと暮らしていたときのように。

体温計を見ると、熱は39度近くまで上がりはじめていた。額に汗がにじむのを感じながら、ああ、これできっとよくなるはず、とわたしは毛布を顔までひっぱりあげた。

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