twililight web magazine
わたしを覚えている街へ
竹中万季
街を歩けば忘れていた記憶がいくつも思い浮かんでくる。まるで街がわたしを覚えているかのように。
この連載では、twililightがある三軒茶屋に3歳から30歳くらいまで住んでいたme and youの竹中万季さんが、あらためて三茶と出会い、新しい関係を築いていく過程を綴っていきます。
わたしは自分が生まれ育った街のことをどれくらい知っているだろう。
地元を知ることは、自分を知ることかもしれません。
愛も憎しみもひっくるめてわたしを覚えている街へ。
毎月2回、会いにゆきます。
第5回「100年前、この街で暮らしていた人たちは」
夏になると、夏休みに入る前の高揚感を思い出す。テストを終えて、最後の授業が終わったときの胸の高鳴り。明日からは何でもできるんだ、というあの解放感。大人になった今ではなかなかあの感覚に出会えなくなったのが少しさみしい。夏休みのあいだは、図書館でいつもより多めに本を借りられたり、貸出期間が長くなるのも好きだった。学校の図書館と区立図書館、それぞれで本を借りて、部屋の机にどんと置いてどれから読もうかな? と悩む楽しみ。本の裏表紙に貼ってある貸出カードの手触り。貸出カードに記された一番新しい日付が「88年」で、わたしが生まれた年にこの本を借りた誰かがいて、それからずっとこの本棚のなかで眠っていたんだ、と知ったときのこと。
世田谷通りを走る東急バスで学校に通っていた頃、一番前の席に座ってよく本を読んでいて、移り変わる風景を窓から横目で見ながら本の世界に没頭していた。小学生の頃、夏休みに読んでいた『はだしのゲン』。戦争や核兵器の恐怖、焼け付いた街、逃げ惑う人たち。そうした状況に置かれたときに人々がとった恐ろしい行動。窓の外に写る風景と、漫画で描かれている戦中戦後の街を比べるとなんだか信じられないけれど、たしかに「あったんだ」ということを知った。あまりにもつらく目を瞑りたくなると同時に、あってはならないことが存在していたことに目を瞑らずにいたい、と思った。
この夏、たまたま両親から、祖母や祖父、さらにその先にいた人たちがどんな人生を生きてきたのか聞く機会があった。わたしの両親は二人とも三軒茶屋の近くで生まれ育ち、祖母や祖父も三軒茶屋付近で暮らしてきた。わたしが日々歩いてきたこの道を、100年前に自分の先祖が歩いていたのだ、と思うと不思議な気持ちになる。
学生時代、暗記科目だと思って苦手意識があった歴史の授業ではリアリティを持って歴史を捉えられなかったけれど、物語や誰かの話を介すとのめり込むように知りたくなった。それは今も一緒だ。自分が今歩いているこの場所には、わたし自身の歴史があるとともに、50年前、100年前、1000年前を生きていた人たちの歴史がある。100年前、この街で暮らしていた人たちはどんな街を生きていたのか。もっと知りたくなり、自分自身の夏休みの宿題にしようと思い立ち、図書館に行ってみることにした。
近所の図書館の「世田谷区の歴史」コーナーへ。なかなか立ち寄ることのなかったコーナーだけれど、大きな図録から、区民の小さな声がまとまった小冊子まで、さまざまな本が並んでいる。いくつかの本を借りて帰った。
そのなかでも、平成4年(1992年)に区制55周年記念事業として世田谷区から刊行されたという『せたがや百年史』はとても興味深かった。まず読み進めた上巻では、明治・大正中頃の近代化のうねり、大正中頃から昭和20年頃の郊外住宅地への転換、昭和20年から30年の戦後復興の道という3つの章を通じて、大きな社会の流れと世田谷の街で起きていた細やかな事象が共に綴られている。この街で暮らしていた人々の生活について、より実感を持って知ることができた。
明治初期の頃の世田谷は、「幾すじかの小河川・用水にわずかに水田が開かれ、ほとんどの面積は畑地と雑木林で占められ、それらの合間に農家と竹林が転々と存在するという典型的な近郊農村」(※1)だったが、明治24年(1891年)に目黒駒場から世田谷村池尻にかけて一大兵営が出現し、それを機に軍事施設が増えていったそうだ。明治30年代以降には、軍事施設の拡充により人が増えていき、「明治末期の世田谷北東部は、さながら“軍隊の街”の観を呈するようになる」と綴られている。この頃の三軒茶屋は「『陸軍御用』と銘打った帽子や洋服の製造業者、西洋洗濯や、遠路はるばる兵営内の兵士に面会にくる人のための旅館などが軒を並べ、遅まきながら文明開化の匂いを漂わせた」とのこと。(※2)
その後、第一次世界大戦を経て、それまで農村が中心だった世田谷の街にサラリーマンなど新しい住民層が暮らしはじめる。「教学院の西側や現在のすずらん通りのあたりに俳優や軍人の住む文化住宅ができたりで、太子堂はしだいに山の手風の住宅地になった」「三軒茶屋は交通の要所ということもあり、このころには太宮館(演芸場)や電気館(映画館)、カフェー、ビリヤード状などの娯楽場や農産物を集める市場ができて、世田谷の中でも中心的な町へと成長していった」(※3)。
この頃の三軒茶屋の雰囲気は、大正14年(1925年)に当時20歳でこの街に移り住んだ林芙美子の日々が綴られている『放浪記』でも知ることができる。「泥沼に浮いた船のように、何と淋しい私達の長屋だろう。兵営の屍室と墓地と病院と、安カフエーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった」(※4)。この後に、共にいた男たちは「たけのこ盗みに行くか……」と言いながら、裏の丘にたけのこを盗みに行く。この一文を読むだけでも、100年前の三軒茶屋は、賑わいを見せながらも農村らしさや戦争の暗い影が色濃く残っていたことが感じられる。三軒茶屋にたけのこが生えていたのか。
『放浪記』のこの文章が書かれた少し前の大正12年(1923年)、関東大震災が起きる。地震による倒壊と共に大火が起き、多くの焼死者が出たこの震災のことは、忘れてはならない出来事として語り継がれている。『せたがや百年史』には「混乱の中の殺傷事件」というコラムがあり、関東大震災の最中で起きた朝鮮人虐殺に関して綴られていた。大火の原因は朝鮮人が放火したためだという流言飛語が警視庁に入り、自警団が組織され、襲来するはずのない朝鮮人に備え、殺傷事件が多数起きたという恐ろしい出来事だ。そこには「ある調査によると『世田々谷三人』とされているが、『世田々谷』が現在の世田谷区域全体を指すのかどうか不明であり、実際は三人でなかで十三人殺されたという説もある」(※5)と書かれていた。
関東大震災のときにそうした恐ろしい出来事があった、ということはもちろん知っていたけれど、自分が暮らしてきた街のこんなすぐそばで起きていたとは知らなかった。これまでもっと詳しく知り考えようとしてこなかったことが恥ずかしくなり、そしてそれはわたしがいくつもの特権を持っているからだとも思い、知らなくては、という気持ちに駆られた。そこで『関東大震災と民衆犯罪 ――立件された一一四件の記録から』という本を読んだところ、「東京府世田々谷町太子堂付近では、世田谷警察署巡査が、品川方面から朝鮮人二人を護送する途中、付近を警戒中の約40人の群衆が『不逞鮮人』の一味と即断して襲いかかった。これに付和雷同した被告も、所持した猟銃で朝鮮人を射殺した」(※6)との記述があった。綿密なリサーチによって書かれているこの本を読み、国家の責任も決定的ではあるものの、「地縁で互いに結びついた『ふつうの地元民』」(※7)が群衆となり起こした事件でもあるということを知った。この街で暮らしていた、ふつうの地元民たち。この時代を生きていた人々は、どのようにこの出来事をとらえていたんだろう。
その後、戦時体制が強化されるに連れて、軍施設が大きな面積を占めていた世田谷では、若い人々の転入や住宅の建築がますます増えていったそうだ(※8)。昭和17年(1942年)、東京に初の空襲があり、昭和19年(1944年)、東京で本格的な空襲が起きるなかで、世田谷も初めて空襲を受ける。東京市街の大部分が焼失し、多くの人が亡くなった。日本は敗戦し、戦後の街がつくられていく。この頃、わたしの父がこの街で生まれる。そして数年後に、わたしの母がこの街で生まれる。
ちょうどこのことについて考えていた2023年9月1日は、関東大震災から100年経った日だった。8月30日に松野博一官房長官が朝鮮人虐殺について「政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」と発言し、存在している事実をなかったことにする恐ろしさに震えた。面目を守るために、あったことがなかったことだと塗り替えられること。悲しいけれど、この国で暮らしているなかで、そうしたことを聞くのは決して少なくないように感じる。
デマに怯え、襲撃に加わった人々は、決して特別な人というわけではないという。『関東大震災と民衆犯罪』のなかで、自警団に所属していた人物がデマを聞いた人々の様子についてこう話していた。「手に手に凶器をもって興奮しているありさまは、これが九月一日以前の、あのおだやかな人びとであったとは信じられないくらいで、こうも同じ人間で変るものかと、暗然たる気持ちに陥っていくのでありました」(※9)。
自身の「安心」を守るためにラベルを貼って異なるものを排除しようとする姿勢が、巡り巡ってこのような惨憺たる出来事につながり、それが戦争にもつながっていく。一緒だと安心で、違うと怖い、という感情は人ごとではない感情だ。注意深くいないと、誰もが扇動されかねないということを忘れずにいないといけないと思う。そのためにも、こうした恐ろしい出来事があったという事実に目を伏せていては、同じことを繰り返してしまうのではないか。わたしだって「そんな恐ろしいことがあるわけがない」と思いたい、けれど、わたしたちが今立っているこの場所で起きてきたことを直視するということは、今たしかに存在しているのに見て見ぬふりをされているさまざまな差別に対する姿勢にも繋がると思った。
街を歩く。昔から変わらずこの場所にあるという木を見ると、この木はここで生きてきた人たちをどう見つめてきたんだろう、と尋ねてみたくなる。この街で、戦争が起きていたこと。今わたしが踏みしめている道路で起きていた出来事。忘れ去ってはいけないことがたくさん存在している。つらく目を背けたくなるような過去をなかったことにするのではなく、あってはならないことがあったということをしっかりと見つめる。大きなものが小さなものを押しやり、都合よく「きれいな世界」を見せようとすることが多いなかで、それでもやっぱり小さな声が聞こえるほうに耳を傾け続けたい。そして、今からでは遅いんじゃないかとは思わずに、学び続けなくてはいけない。そう思った夏だった。
※1:せたがや百年史編纂委員会『せたがや百年史』,世田谷区, 1992, p.36
※2:同上, p.54-55
※3:同上, p.137
※4:林芙美子『放浪記』,新潮社, 1979
※5:せたがや百年史編纂委員会『せたがや百年史』,世田谷区, 1992, p.86
※6:佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪 ――立件された一一四件の記録から』,筑摩書房, 2023, p.157
※7:同上, p.202
※8:せたがや百年史編纂委員会『せたがや百年史』,世田谷区, 1992, p.171
※9:佐藤冬樹『関東大震災と民衆犯罪 ――立件された一一四件の記録から』,筑摩書房, 2023, p.20
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プロフィール

1988年生まれ、東京都世田谷区出身。編集、企画など。2017年、CINRA在籍時に「She is」を野村由芽と共に立ち上げ、2021年に野村と独立し「me and you」を設立。『わたしとあなた 小さな光のための対話集』や『me and youの日記文通』の出版や、ウェブマガジン・コミュニティ「me and you little magazine & club」を運営するほか、J-WAVE「わたしたちのスリープオーバー」のナビゲーターを務める。日々のことや見たり聴いたりしたものを記録する個人的なウェブサイトの存在を10代の頃から大切にしています。