twililight web magazine
わたしを覚えている街へ
竹中万季
街を歩けば忘れていた記憶がいくつも思い浮かんでくる。まるで街がわたしを覚えているかのように。
この連載では、twililightがある三軒茶屋に3歳から30歳くらいまで住んでいたme and youの竹中万季さんが、あらためて三茶と出会い、新しい関係を築いていく過程を綴っていきます。
わたしは自分が生まれ育った街のことをどれくらい知っているだろう。
地元を知ることは、自分を知ることかもしれません。
愛も憎しみもひっくるめてわたしを覚えている街へ。
毎月2回、会いにゆきます。
第6回「母と父が幼かった頃の街へ」
滲む汗を拭いながら、実家へ向かう。9月に入ったけれど、まだ秋はだいぶ遠くにいるように思える。あの頃の夏は、こんなに暑かったっけ。変わっていくことに寂しさを感じながらも、歩道橋をのぼって見えた風景がなんにも変わらなくて、少し安心した。
風景の変わらなさに安心したのは、昨日、渋谷にいたことも関係してるかもしれない。銀座線を降りてスクランブルスクエアに出て、ヒカリエの方に歩いているとき、このあたりに東急文化会館があって、その通路を学校から帰るときに毎日歩いていたなあ、とふと思い出した。思い出したけれど、その「感じ」が思い出せなかった。たしか窓があって、その窓の外にはバスロータリーが見えて、さらに向こうにはかつて存在していた東横線のホームが見えたんだけど、どういう感じだったっけ……こんなふうにいろんなことをどんどん忘れていってしまうのだろうかと、ちょっと不安になった。
打って変わって、このあたりはあんまり変わらない。それにいつもほっとする。三軒茶屋の駅前を歩いていても、立ち並ぶお店の変化はあるものの、大枠としての「感じ」は、わたしが小さい頃とそんなに変わらないように思う。同じ東京といっても、流れる速度にだいぶ差があるなと感じる。
実家に向かっていたのは、わたしと同じく三軒茶屋のあたりで生まれ育った両親に、幼い頃のことや、街がどう変わってきたのかについて聞いてみたいと思ったからだった。記憶力のいい母からは(母はこんなに覚えているのに、なんでわたしは忘れっぽいんだろう?)、小さな頃の思い出話を断片的にたくさん聞いてはきたものの、こうやってあらためて聞くのははじめてだ。父の小さい頃の話を聞くのは、ほぼはじめてかもしれない。今も世田谷に住んでいるから、実家に帰るのは全然ひさしぶりではないけれど、こうやって話を聞くというのは少しあらたまった気持ちになる。
いつもと変わらず、通りのなかでも目をひく花々が見える。玄関のまわりの花々の美しさが自慢で、それは母がいつも気を配っているから保たれているんだと思う。こういうことを母にちゃんと伝えなきゃ、といつも思いながらも、照れくさくて言ったことがない。言ったほうがいいこともわかってるんだけれど。
リビングのテーブルのいつもの席に座る。「まきちゃん、最近仕事はどうなの?」といつもの話を聞かれ、いろいろと近況について話してから、「じゃあ、はじめます」とちょっとだけかしこまって、母と父へのインタビューをはじめた。まずは、生まれた頃の話から。
母は1955年に生まれ、三軒茶屋の近くにある古い家で育った。今ちょうど話を聞いているわたしの実家は、その家があった跡地に建てられている。父は戦後すぐの1949年生まれで、同じく三軒茶屋の近くにあった社宅で育つ。二人はたまたま同じ幼稚園の出身で、わたしもその幼稚園に通っていた。この話を聞くたびに、この場所に引きつけられているような縁をどうしても感じてしまう。
「このへんにたしか、おばあちゃまの部屋があって……」と母はソファの横あたりを指さす。103歳まで生きたおばあちゃま、わたしのひいおばあちゃんは、明治28年生まれ。まだ古い家があったとき、廊下を抜けておばあちゃまの部屋に行って、鳩サブレをよくもらっていたことをたまに思い出す。廊下の横に見える庭には、井戸があった。その記憶が、わたしの最も古い記憶かもしれない、もうほとんど思い出せないけれど。このことを思い出すたびに、おばあちゃまにもっと話が聞けていたら、そして会ったことがないひいおじいちゃんやおじいちゃんに聞けていたら……といつも考える。数年前に亡くなったおばあちゃんたちにはいろんな話を聞いていたけれど、もっと書き留めておけばよかった。
いつ頃からその古い家があったのかは母もわからないそうだけれど、家には広い庭があって、そこでよく遊んでいたという。「昔はみんな庭で犬を飼ってたのよ。そういえばうちも迷い込んだ犬ころを庭で飼ってた。あと、庭にはよく突然穴があいて、モグラが顔を出していたよ」。このへんは家がぎゅうぎゅうに詰まった住宅街だけれど、母が幼い頃は家の前に丘もあったらしい。
父も「たしかに、このへんは畑が多かったよ」と話す。「小学校の頃、遊びといったらめんこかベーゴマ。近くに駄菓子屋があってそこでやってた。あとは野球。でもバットがなかったから、代わりに手で打つ『三角ベース』という草野球をやっていた。ものがない時代だったからね。夏は公園に『とりもち』を持っていって、セミ取りしてた。駒沢のオリンピック公園は、俺が小さい頃は土が盛ってあるような空き地だったよ。野球のグラウンドになっていて……たしか『東映フライヤーズ』だったかな。自転車を持っていって、盛り土の上から降りる遊びをしていた」
話を聞きながら浮かび上がったイメージはのどかな田園風景で、「都市」の印象とはだいぶ離れている。
「釣り竿を持って自転車で二子玉川に行って、イカをつけてザリガニを釣ってた。5歳くらいのときに、親父が『ちょっと行くぞ!』って言うから付いていったら、青い自転車を買ってくれたんだよね。自転車の練習をするとき、綱をつけて引っ張ってくれたな。その自転車であちこちに行っていたよ」。わたしが生まれる前に亡くなったおじいちゃんは写真でしか見たことがないけれど、自転車に乗った幼い父と、それを引っ張っているおじいちゃんの姿が頭に浮かんだ。

1958年の三軒茶屋の交差点。両親が幼かった頃。
そんな父方の祖父は新しいもの好きだったらしく、「テレビ、洗濯機、冷蔵庫の『三種の神器』が出てきたとき、親父はすぐに買おうとしていた」と教えてくれた。父もインターネットがはじまるだいぶ前にパソコンを買っていたし、早いうちからiPhoneを使い続けている新しいもの好きで、わたしも新しい機器には関心があるほうだから笑った。わたしも1950年代を生きていたら、いちはやく三種の神器を手に入れたがったのだろうか。
当時のテレビは白黒で、チャンネルをダイヤルでまわすタイプ。「わたしが3歳くらいのときに、美智子妃殿下の結婚式の様子をテレビでやっていて、その様子をお父さんが8ミリカメラで撮っていたな」と母は話す。母方の祖父にも、わたしは会ったことがない。写真と洋画が大好きだったというわたしのおじいちゃん。学徒出陣で戦争に行き、戦後も米軍基地で働いていたそうだ。母がまだ学生の頃に異国の地で亡くなったという祖父は、どんな人だったんだろう。戦争について、どんなことを思っていたんだろう。
当時の洗濯機はローラーをまわすタイプのもので、「洗濯機がくるまでは、洗濯板を使って洗濯していたのよ」と母。冷蔵庫は電気ではなく、氷で冷やしていたそうだ。「近所の氷屋さんで『氷券』を買っていたからね」と父。後で「氷券」について調べてみて、「生活必需品だった氷は引換券(氷券)による前払いが一般的で、時に氷券は夏季贈答用の品として今のビール券のような扱いもされていた」(※1)ことを知った。氷といえば冷蔵庫でできるものだと思っていたから、むしろ冷蔵庫はもともと氷で冷やすものだったのか、と驚く。
こうした話を聞くたびに、親たちはわたしが生まれてから当たり前に受け取っている便利さを知らない時代にも生きていたんだ、ということにはっとして、同時に、その「便利さ」とはいったいなんなんだろう? と、いつも立ち止まってしまう。

1961年の三軒茶屋の交差点、道路の向こうに不二家が見える。
図書館で印刷してきた、昭和の三軒茶屋の写真をテーブルに広げた。昭和40年代の茶沢通りの写真には、今はなき「日本勧業銀行」の文字、その向かいには「Chiyoda」の文字が。靴のチヨダはこんな昔からあったのか。そして、今西友がある位置には「緑屋」の看板が見える。母いわく、「緑屋は小さなデパートで、そこに行けば大体の日用品が揃った」そうだ。三軒茶屋で覚えている店ってある? という質問に対して返ってきたのは「不二家」だった。「不二家だけはしょっちゅう行ってた。お店のなかに螺旋階段があって、月に一回チョコレートパフェを食べさせてもらうのがたのしみで」「三茶で唯一洒落てるところだったよな」と盛り上がる二人。不二家はその後キャロットタワーに移転して、今はもうなくなってしまった。
「三軒茶屋の駅前あたりはどんな街だったの?」と聞くと、「庶民的な街。茶沢通りを曲がったとこにある緑道には当時は川があって。染物屋が何軒かあって、川で染め物をしたりしていて、そんな風景だった」「洒落たものがほしいとなると、やっぱり渋谷だったよ」と話してくれた。渋谷と二子玉川を結ぶ路面電車「玉電(東急玉川線)」が通っていて、ほかの駅と比べて三軒茶屋には立派な駅舎があったそうだ。「両親が週末に玉電で渋谷に行って『富士アイス』を買ってきてくれた。アイスクリームもそんなにない時代だったから、うれしかったな」「わたしは東急文化会館で『立田野』のモナカアイスを買ってきてもらうのがたのしみだった」。
「デパートの屋上が大好きで、日本橋三越の特別食堂でお子様ランチを食べるのも好きだった。東急東横の屋上や日本橋三越の屋上には、昔は小さな遊園地があったのよ。二子玉川園の遊園地にも連れてってもらったのはよく覚えている」と母。二子玉川園は1985年に閉館した、かつて二子玉川にあったという遊園地。全国でも、デパートの屋上遊園地はだいぶ少なくなっているらしい。わたしも、小さい頃に屋上の遊園地に連れていってもらった記憶が微かに残っていて、その存在を思い返すと胸がときめく。
庶民的でのどかさがありながらも、渋谷や銀座にもアクセスがいい街。話を聞いていると、やはり親たちも都市で暮らしてきたのだ、と感じた。

1975年、玉電が走る三軒茶屋駅前。両親は出会ったばかり。©世田谷区
そのあとも、高速道路や新幹線などの移動手段の発達で少しずつ生活が変わっていった話や、学生時代の話なども聞いていたら、時間が迫ってきてしまった。テレビも冷蔵庫もなくアイスクリームやチョコレートパフェを食べるのが特別なたのしみだった時代、そして高度経済成長期やバブル期を経て、不景気も見てきた二人。普段、LINEでやりとりしていると、そうした時代のことも知っているのだ、ということをつい忘れてしまう。その一方で、自分は物心がついたときから情報やもので溢れかえっていたし、親ほどは時代の変化を見てきていないな、と思ったりもするけれど、生まれた頃はパソコンも携帯電話もなかったし、クリックするだけであっという間にものが届くというのも実は最近のことだということを、いつも忘れてしまう。
現代の社会は欲望を満たせるものがあまりにも多すぎて、自分も含め、人々はどこまで求めれば気が済むんだろう? とたまに感じる。わたしだって小さい頃は月に一度、雑誌を買いに行くことだけが何よりのたのしみだったけれど、今はどこも行かずに画面を無限にスクロールして、インスタントに欲望を満たすこともできてしまう。
「このサイドボードは結婚したときに買って、ボーナスのときに少しずつ買い足したもの。この食器棚は今から102年前にわたしの父親が生まれたときにつくってもらったもので、お父さんが好きだったバナナが彫られてるの。昔のものが残っていると、その頃のことを思い出すことができるよね」
「今の時代はもので溢れているけれど、いいものばかりが増えたわけではないと思う。絶対量は増えていても、自分に必要なものが増えていくというわけではないから」
「でも、ものの質はもちろん良くなったし、前に比べると安くていいものが買えるようになった。今は300円ショップにもいいものがたくさんあるし」
「この家だって、古いものと新しいものが混ざってる。ちょうどいいごちゃつき具合でしょう?」

1985年の三軒茶屋駅前。わたしが生まれる3年前。©世田谷区
「いろいろ話したけれど、どうやってまとめるの?」。そう母に聞かれたとき、わたしはどこかでわかりやすい答えを求めてしまっていたことに気づいた。たとえば、昔はよかったとか、あるいは今のほうが便利でいいとか。けれど、そんな簡単にどちらかを選べるものではないのだ。
これからわたしが生きていく未来にも、今ではまったく想像できないような技術や新しいものが出てきて、きっとなにか欲望が駆り立てられることがあるのかもしれない。便利さや進歩のようなものは、たしかに人々の暮らしを豊かにする部分がある。けれど、変わらない風景が存在することを愛おしく思うように、うしろを振り返りながら、たしかめていくことも忘れてはいけない。自分が生まれる前の時代を生きてきた人の話を聞くことや、昔からある場所やものに触れることは、ただ前に前にと進もうとしがちなわたしたちに「忘れてはいけない」ことをしっかりと思い出させてくれる。
少し照れくさいことではあるけれど、家族にあらためて話を聞くことはもっとやっていきたいなと思った。帰り道を歩きながら、すべての人のなかに小さな思い出が眠っていることを思うと、街を歩く人々のことが愛おしくなった。
※白黒写真は世田谷区「世田谷WEB写真館」に許可をとり使用しているもの
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プロフィール

1988年生まれ、東京都世田谷区出身。編集、企画など。2017年、CINRA在籍時に「She is」を野村由芽と共に立ち上げ、2021年に野村と独立し「me and you」を設立。『わたしとあなた 小さな光のための対話集』や『me and youの日記文通』の出版や、ウェブマガジン・コミュニティ「me and you little magazine & club」を運営するほか、J-WAVE「わたしたちのスリープオーバー」のナビゲーターを務める。日々のことや見たり聴いたりしたものを記録する個人的なウェブサイトの存在を10代の頃から大切にしています。