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Nostalgiaにて
竹中万季
『わたしを覚えている街へ』で生まれ育った街をたくさん歩いて何かを思い出したり、街の記憶を知ったme and youの竹中万季さん。
この連載では、誰かと一緒に、それぞれ存在している懐かしさを感じる景色を歩きながら、それぞれが生きてきた記憶と、その場所が覚えている記憶を辿っていきます。
自分を構成する懐かしさの中で、ふたりの異なりと重なりの先に見えてくる景色とは。
第2回「小名木川クローバー橋で待ち合わせて」 東京・住吉/中国・深圳
とても暑い炎天下の日、小名木川クローバー橋に向かった。「懐かしい風景を一緒に歩きませんか」と櫻子さんに尋ねたら、「住吉のあたり、ドラマとかでよく使われているクローバー橋のあたりとかどうでしょう」というお返事をもらって、この橋で待ち合わせることにしたのだった。小名木川と横十間川という二つの川の合流点を十字形に結ぶこの橋、画像で検索してみたら、たしかになにかのドラマで見たことがあるような気がする。
櫻子さんと出会ったのは、十年ほど前だろうか。世界を俯瞰して見つめ、知識の引き出しが豊かな彼女と話していると、あっという間に時間が過ぎていく。出会ったときに「免許持ってないんですけど、最近車を買いました」と言っていたのを覚えている。そうした大胆さも、彼女がつくる繊細なクリエイションとの二面性があってチャーミングだといつも思う。最近会ったときにも、どうしてもなにかに熱狂できないこの感じはなんだろうといった話や、くたびれきったティーン時代の話をして、深いところで通じ合っているように感じていた。お互い東京で生まれ、年齢も近い。ただ、ずっと東京の西側で引っ越しもせずに暮らしてきた私とは異なり、櫻子さんは東京の東側で引っ越しを重ね、さらに日本と中国を行き来する生活をしていた。彼女が十代の頃に見ていた景色は、一体どんなものだったのだろうか。
去年、櫻子さんが中国残留孤児のおばあさまの話や、彼女自身が東京の学校から中国・深圳へと転校したときの話を綴ってもらったことがあった。第二次世界大戦後に中国に残された日本人孤児である中国残留孤児の存在と、その人たちがどんなに過酷な状況を辿ってきたかを知ったのは、恥ずかしながら初めてのことだった。そのことも含め、ひさしぶりにゆっくり話したかった。
半蔵門線に揺られ、住吉の駅に到着する。駅から少し歩くとすぐ川が見えて、階段を降りて、川沿いを歩いていった。橋の下で寝ている人。伸び切った草木。「ヘビを見かけたら」という看板。私が暮らしている家の付近も川が多いけれど、同じ川でも趣がだいぶ異なる。
目的地の橋に近づくと、なにかの匂いがした。魚屋のような匂い。「お母さん、魚が死んでる!」と自転車で横を通り過ぎる子供の声。川を覗き込むと、大量の魚が浮かんでいた。強すぎる太陽に照らされて、鱗がぎらぎらと輝いている。
ぼんやりと死んだ魚を眺めていたら、橋の向こうから、櫻子さんが歩いてきた。
「魚やばいですね、こんな場所で待ち合わせしてしまってすみません。暑いからバクテリアとかも増えて、水温も変わっているのかな」
検索してみると、暑さで水温が上昇して酸素不足になり、大雨でまきあげられた川底の泥がエラに詰まって、呼吸しづらくなった魚たちが死んでしまったらしい。
「中学校もこの川沿いだったので、当時はよく歩いてたなあ。そこのホールで卒業ライブとかもして。久々に来たら魚が死にまくってるなんて、びっくりしました」
魚たちを横目に、橋を抜けて、少し西側にある清澄白河のほうに向かって歩いていくことにした。
このあたりは荒川と隅田川に挟まれた地域で、地図を見てみると、細い川が縦横に流れている。かつては、海面と小さな島々だけだったという。江戸初期から埋め立てが始まり、戦前から工業地帯として栄えた。櫻子さんが湾岸の歴史について書かれた本で知ったという話によれば、以前は氾濫しやすかった河川の環境を整備し、その結果、道が碁盤の目のようになっているそうだ。
江戸の城下町として早くから栄え、いわゆる「下町」と呼ばれる東京の東側の雰囲気は、江戸時代は田畑が広がる農村であったという私の地元とは、同じ東京といってもだいぶ異なるように感じる。明確に西と東で区切れないとはいえ。たとえば江戸っ子という言葉。東京出身だというと「江戸っ子ですね」と言われるときがあるけれど、そうではないのです、すみません、と私はいつも恐縮する気持ちになっている。その恐れ多い気持ちがどこからくるのかは、よくわからないけれど。
大きなマンションを指さしながら、「あのマンションは姉歯事件で建て直した みたいで。令和でこの話題、もう聞かないですよね」と、櫻子さんは言う。2005年、姉歯元一級建築士がマンションの構造計算書を偽造した問題は、高校生の頃にテレビで大々的に報道されていたから、私もよく記憶している。櫻子さんとは四歳違いだから、彼女は中学生だった。
1997年に建築基準法の大改正により規制が緩和され、東京ではタワーマンションの建設が相次いでいた。特に江東区、港区、中央区あたりに多く、江東区ではもともと住吉などの内陸エリアに多かったのが、現在は豊洲などの湾岸エリアに広がっているという。
小学生の頃、タワーマンションに住んでいる友達がいた。エレベーターに椅子がついているのを見たことがあまりに衝撃的だったからか、「タワマン」と聞くと、私はその様子がすぐに頭に浮かぶ。いまも数人の友人が住んでいるけれど、行ったことはあまりない。それくらい、私にとってのタワマンの解像度はかなり低い。普通、椅子がついているものなのかもよくわかっていない。
櫻子さんは近隣のエリア でタワーマンションの一室を購入している。車を買った話もそうだけれど、マンションを買った話も以前聞いてからずっと記憶に残っていた。かつてはお金を使う暇もないほど労働していたから、買えたのだという話も。だからなのか、もともとなのか、彼女は土地についてとても明るい。
「都営新宿線、半蔵門線、東西線、総武線が使えて、都心までのアクセスが早いのに、家賃はちょっと控えめなんです。両国とか森下は自転車で浜町や新橋も行けちゃうから働き盛りの若い人が多くて、昔から住んでる方も多い。住吉から東に行くと子育て世帯が多くて、団地も増えてくるので、お手頃な値段で住めるような感じですね」
東京のどこだって説明できるわけではなく、暮らしてきた地域だからこそ、街ごとの細部の特徴や雰囲気を説明できるのかもしれないね、という話をした。私だって、そうだ。櫻子さんも「三茶に行くまでは芸能事務所が多い街っていうイメージでした」と言う。
車通りの多い道沿いを歩いていくと、公民館が見えてきた。
「ここで成人式をしました。このあたりに住んでいたのは小学五年生くらいまでで、それ以降は葛飾の立石にいたので、越境通学で一時間くらいかけてここに通っていて。転勤族でいろんなところにいたので、地元っていう感じがそんなにするわけではないんですよね。でも、帰属意識としてこの場所にこだわっていた気がします」
古くから続いている店も多く商人・職人文化が根付いている下町は、コミュニティが強いと言われることだし、東京のほかのエリアに比べても街への帰属意識を感じている人も多くいるように思う。それは、たまにこの辺の祭に行ったときにも感じる。でも、櫻子さんが口にする帰属意識という言葉は、また少し異なる切実さがあるように感じた。
「ここらへんは住みやすくって、都心に出ない子も多い印象です。大島で育った子は大島で育った子と結婚して……交際関係が転々としていく様子もインスタとかでわかったりして。そうしたグループでの付き合いが難しかった子が、街を出て新宿とか都心に出ていってるように思います」
歩いていると、清澄白河が見えてきた。この道をまっすぐ行くと、東京都現代美術館に到着する。信号の向こう側はタワーマンションが並ぶ豊洲などの湾岸エリアが広がり、大きなイオンもあって、少しいくとオフィス街の銀座や新橋がある。一駅歩くだけで、風景がどんどん変わっていく。購入したマンションの一室とは別の、いま暮らしているマンションも東東京にあるという。幡ヶ谷あたりでも物件を探したけれど、リバーサイドがやっぱり好きなのと、アトリエとして広いスペースが欲しくなり、最終的にその場所に決めたそうだ。暮らしたい場所ってやっぱり、いつか見た風景を反映したくなるのだろうか。こうありたくない、というものも含めて。
清澄白河駅近くの道を少し入ったところにあるカフェに入ることにした。
道行く人たちが見えるカウンター席に座って、ドリンクを待つ。紫のオーガンジーの袋に入った、彩り豊かなものたちを渡してくれた。ちょっと前にイタリアとギリシャとイスタンブールに船旅に行ったお土産だそうだ。知り合いの有閑マダムに誘われたという話を聞いて、知り合いに有閑マダムがいるんだ、とちょっと驚く。有閑って、どんな意味だっけ。
船旅は夏休みを過ごす欧米の人も多く、少し南に行けばパレスチナがある場所で、資本主義を浴びながら過ごすことの複雑さを感じたという。きらびやかな船上での贅沢な時間と、その背景にある現実。その複雑さをすぐにその場で共有できないもどかしい思いもあったという。
共有できる話題と、共有できない話題。櫻子さんは「日本だと、政治がまさに共有しづらい話題ですよね」と言う。「あと、日常で衣食住のうち“住”の話をするのは、なんで少しはしたない印象になるんだろうと疑問に思うんです。“衣”と“食”については話せるのに」。日本では家や土地の話題は避けるような空気がたしかにあるけれど、その理由はなんだろう。なんとなく避けることが当たり前になりすぎてしまって、考えたこともなかった。
ちょうどこの日は東京都知事選が終わったばかりだったので、街で暮らす人たちのことを、しばらく考えていた。自分のまわりでも、エコーチェンバーやフィルターバブルについての話がよく出ていたけれど、いま、自分が立っている場所は一部でしかないこと、さまざまな考えを持っている人たちがいること、その人たちが意見を交わることなく過ごしているということが、炙り出されたような選挙だと感じていた。
決して、二項対立的に考えたいわけではないはずなのに、気づけば自分自身も無意識のうちに「こちら側」と「あちら側」にわけてしまっている。自分とは違う、と線を引いてしまうような。窓の向こうに見える、子どもの手をひいている親、スーツ姿で急ぐ人、ゆっくりと散歩している二人を見ても、そんなふうには決して思わないのに。でも、そこにたしかに存在する、存在させられている違いを見て見ぬふりをするのも、なにかしらの気持ちわるさがある。
「前に万季さんが書いてた、“見えないものは見ない”という風潮があるという話が、記憶に残っていて。ちょうど、飛行機のなかで映画の『PERFECT DAYS』を見てたんですけど、主人公が住んでいるのはスカイツリーのちょっと北側で、墨田区のなかでも開発がしづらいところなんです。ロケ地は全部自分が知っているところだったんですけど、再建築が難しい 築何十年の建物が多いところで。そこから川を渡って、渋谷区に行くんですよね」
映画に出ていた橋は、たしかに待ち合わせをしたクローバー橋にも少し似ていた。
「隅田川を隔てて、まるで此岸と彼岸みたいに見えて。見たいものしか見えない、見えないものは見ない。見えないことにしておいたほうが精神衛生にいいみたいな」。そのほうが、相手を傷つけないし自分も傷つかない、ような。でも、本当にそうなのか。そう思ってしまう。私と櫻子さんの大きな共通点はきっと、見えないものを見たい、見たくないものも見たい、というところなのかもしれない。そんな話をした。
「この選挙をきっかけに、対立構造をつくりたくないと思うんです」と櫻子さんが言った。彼女がいつも自分の言葉で考えを伝えるのは、単純に強い意志から来ているだけではなく、十代の頃に中国で過ごした経験も大きいのだろうと私は感じた。
「中国は社会主義の国なので明確な政権批判はできなくて、社会を変えていくためにはこうした問題を解決していくべきだ、という話し方になるんです」。政治や社会の不満を言葉に出すのが難しい国だからこそ、思っていることをどう表現するかが求められる。そこでは、政治や歴史を学ぶことが日常の一部であり、言葉の背後に自分なりの文脈を持たなければ、生きていくことができない。そうした逼迫感が、政治や”住”にまつわる話を遠ざけることが多い日本とは異なる部分なのかもしれない。「中国にいると、口にすることと本音、表と裏を、自分のなかでしっかり分けなくてはいけない。本音を話すときにも、前提を必ず話さなくてはいけなくて」。その話を聞きながら、私は見えるものと見えないものの話を考えていた。
川は本当に、こちら側とあちら側を隔てるものなのだろうか。むしろ、なにかをつなぐものにはなり得ないのか。タワーマンションも古くからある家屋もどちらもあるこの場所に帰属意識を持ち、日本と中国という異なる文化を持つ二つの場所で生きて、建前と本音を使い分ける社会を経験してきた櫻子さんが、「対立構造をつくりたくない」と強く願う気持ちの背景にどんな景色があったのか、私はもっと知りたくなった。
お茶を飲みつつ、彼女が十代の頃にどんなふうに中国で過ごしていたのか、ゆっくり話を聞くことにした。願わくば訪れてみたかったけれど、まずはグーグルマップで開いた中国の地図を見ながら。
(後編につづく)
◆一緒に歩いた人
富沢櫻子(とみざわ・えいこ)
ekot spectrum works 主宰
幼少期から東京、香港、大陸各地での生活を経て、 2015年からナラティヴでアンニュイな世界観、無国籍な佇まいのアロマワックスサシェを製作する「檸檬はソワレ」として活動。2018年より、より裾野を広げた制作・提案を目的とした『ekot spectrum works』を立ち上げる。主軸の創作活動以外にも、ミニチュアプレイング、文筆やエッセイ、書評の執筆と、インディペンダントに活動の幅を広げている。現在は東京を拠点に活動中。
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プロフィール

1988年生まれ、東京都世田谷区出身。編集者。CINRA在籍時に「She is」を野村由芽と共に立ち上げ、その後野村と独立し「me and you」を設立。『わたしとあなた 小さな光のための対話集』や『me and youの日記文通』の出版や、ウェブマガジン・コミュニティ「me and you little magazine & club」を運営。2023年にtwililightから『わたしを覚えている街へ』を刊行。日々のことや見たり聴いたりしたものを記録する個人的なウェブサイトの存在を10代の頃から大切にしています。