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2025.03.03更新

Nostalgiaにて

竹中万季

『わたしを覚えている街へ』で生まれ育った街をたくさん歩いて何かを思い出したり、街の記憶を知ったme and youの竹中万季さん。
この連載では、誰かと一緒に、それぞれ存在している懐かしさを感じる景色を歩きながら、それぞれが生きてきた記憶と、その場所が覚えている記憶を辿っていきます。
自分を構成する懐かしさの中で、ふたりの異なりと重なりの先に見えてくる景色とは。


小名木川クローバー橋で待ち合わせて(2) ぬかるみの道を歩き、見えないものを見ようとして 東京・住吉/中国・深圳

 戦前たった13年間だけ存在していた、日本政府と関東軍の支配のもとで建国された国家である「満州国」。歴史の授業で習ったとき、私は「すでに誰かが暮らしている場所に、なんで国を新たにつくれるんだろう」と純粋に疑問に思いながらも、ぼんやりと通り過ぎてしまっていた。
「母がいた遼寧省はこのへんで、父がいた湖南省がこのへんで。それで、このあたりが満州で。いまの中国の北東地域を、だいたい満州にしていた感じだったんですよね」
 グーグルマップを開いて、そのあたりを指でぐるっと囲みながら、でっかいねえ、と話す。二本の指で画面を拡大したり縮小したりしていると、こんなにも近くにあるのに、なんにも知らないのだ、知ろうとしてこなかった、ということを実感する。櫻子さんにとってのもうひとつの懐かしい風景である中国の深圳の話を聞く前に、まずはお母さん、そしておばあさんの話について聞くことにした。

 長野県で暮らしていたという櫻子さんのおばあさんは、満蒙開拓団として両親とともに満洲へ向かい、そこで終戦を迎えたという。満蒙開拓団は、恐慌や飢饉などの影響で困窮した状況のなかで、日本が国策として進めた農業移民だ。土地が肥えていて作物が豊富に育つ土地だという触れ込みで、人々はこれまで住んでいた場所を離れ、船に揺られ、のちに満州と呼ばれるその場所に渡った。
 1945年8月9日、ソビエト連邦による満州侵攻が始まり、そこでの民間人犠牲者の数は約25万人にのぼったという。玉音放送の約一週間前のことだった。「死者や被害者数が多いにもかかわらず、沖縄や広島・長崎と比べると不可視化されていて。語られづらい場所なので、私自身も調べないとわからなかったくらいです」と櫻子さんは話す。
 当時の満州には多くの日本人が滞在していたが、1946年から48年にかけて日本に引き揚げることができたのはその一部で、1958年に正式に引き揚げ終了となった。翌年「未帰還者に関する特別措置法」という法律ができ、日本の国土を踏めずにいた人たちの戸籍は抹消された。彼らの存在は、ほとんどなきものとされていたそうだ。存在している人が、書面一つで、いないことになってしまう。

 櫻子さんのおばあさんは、戦後日本に引き揚げることができなかった「中国残留孤児」だった。「祖母の父親は戦禍のなかでソ連軍の捕虜として連れ去られ、祖母の母親は満州から日本へと引き揚げる汽車を待つ駅の冷たい床に横たわって息をひきとり、7歳でひとりになった祖母は中国人の夫妻に引き取られて奴隷のような日々を強いられ、その後、民生施設に保護された」。この話を以前櫻子さんから聞いてから、ずっと頭に残っていた。その後、おばあさんは中国人と結婚し、そうして産まれたのが櫻子さんのお母さんだという。
 1981年、肉親探しのため初めて日本を訪れた中国残留孤児の身元が判明したことがきっかけでこの問題に注目が集まり、厚生省(現在の厚生労働省)が調査に踏み切ることになる。そして櫻子さんのお母さんが26歳になった頃、やっと一家で日本へと永住帰国することになったという。ちょうど私が産まれた1988年のことだった。
 長いあいだ孤児だった期間を経て引き揚げた人たちは頼る場所がない場合が多く、日本は戦争被害への謝罪として支援策を講じたが、そこには不十分な部分もあったそうだ(※)。中国残留孤児二世である櫻子さんのお母さんは日本に来てから日本語や日本社会に適応するための生活習慣を学び、それから中国から日本に留学していた櫻子さんの父と出会い、櫻子さんが生まれる。

 これはすべて櫻子さんが教えてくれたことで、私はそれを手がかりに調べただけのことだ。政治や戦争に翻弄されて、生まれ育った故郷へ帰ることができず、自分でなにかを選択したくともできない状況を過ごしてきたおばあさん、そして言語がわからぬまま日本という地で暮らすことになったお母さんのことを思う。これまでどんな話をしてきたのだろう。「誰も言わないから自分で探すしかないし、参考図書も本当に少なくて」。さっきまで二人で話していた、「見えないものを見たい」という言葉の奥行きを思い知る。
 自分が歴史の授業をぼんやりと、まるで他人ごとのように聞いていることができていたのは、自分がその場所で生きていくうえでマジョリティだったからで、疑問を持たずにぼんやりと通り過ぎることができた経験そのものがその事実を語っているように感じた。

 小学4年生になった櫻子さんは、お母さんの仕事の都合で東京を離れ、中国の深圳へ向かい、現地の学校に通うことになった。そこにあった「ぬかるみの道」が記憶に残っているという。
 深圳。中国のシリコンバレーとも呼ばれ、高層ビルが立ち並ぶテクノロジーシティというイメージだけど、当時はまだ開発中だったそうだ。たくさんの外国人、サンヨーの工場、香港へのフェリーポート。香港に通ずる大きい道路をつくるため、古い道路を潰すブルドーザー。まさにいま、街がつくられているという空気の中で、ぬかるんだ道を歩いて学校に通っていた。

「中国の国語の授業って、暗唱しなくてはいけないんです。日本では著者の気持ちやここはどういう意味なのかを問われると思うけれど、そうじゃない。漢詩のような短いものはまだしも、長ければ数百文字、数ページまるごと暗唱できないと帰れなくて。初めて暗唱したのが日本との戦争に関するトピックでした。日本では“日中戦争”だけど、中国では“抗日戦争”と呼ばれるんですよね。国の成り立ちや中国思想を教えるうえで、暗唱を通じてルーツを叩き込む感じがありました。戦争被害から取り戻すという彼らの物語のなかでできた国だから、そこを抜かして成り立ちを説明することはできない。でも、そんなことは当時はわからないから、複雑だった」

 教科書のみならず、社会科見学で訪れる資料館や授業で見る映画、その一つひとつが日本の学校で教わる歴史のあり方と大きく異なる。「あなた日本人だけど、靖国神社についてどう思う?」と先生に聞かれ、自分なりに説明すると、本音ではその内容を理解していたとしても先生という建前では決着がつかず、延々と話が続いていく。最終的に当時の拙い語学力では言い返せなくなり、櫻子さんは学校から脱走騒ぎを起こす。そうした状況になるまで先生の説明を聞くこともあったそうだ。日本と中国、両方のルーツを持つ櫻子さんにとって、引き裂かれるような思いだったのではないか。いくら頭を巡らせても、その感覚を知り得ることはできなかった。これはきっと、その状況にいる人にしかわからないことだ。
「中国と日本、どちらにいても自分という感じがしなかった。私からすると、政治や選挙、外交の話はその頃から死活問題になりつつあった」と櫻子さんは言う。櫻子さんにとってのそれらは、ただ黒板に書かれるものではなく、生活そのものだったのだと思う。

 当時は、名字についても悩みがあったそうだ。家族全員で日本に帰化したときに名字を父方の「呉」のままにしていたため、「呉櫻子」という名前で過ごすことの難しさを日本でも中国でも感じていたという。「日本の学校にいると中国人扱いされて、中国の学校にいると日本人扱い。名前は日本すぎるし、名字も中国すぎる、というか。隠れたくても隠れられない。全部変えたかったです。すごくノーマルな、どこにも属さないような名前に」と、自分を定義づけるものでもある名前に対するフラストレーションがあったことを教えてくれた。
 外国籍の人が日本での生活を円滑にするため「通称名」という制度があり、住民票には本名と通称名が記載され、学校や会社などの公的な場所では呼ばれたい名前として通称名を使用することができる。しかし、帰化する場合は帰化許可が出た時点で名前を変更することはできなくなり、通称名を使うことができないそうなのだ。例えば日本の学校で、日本でよく聞く名字で呼ばれるのであれば、幾分違ったのかもしれない。

「当時は母の勤めている会社で定期購読されていた日経ビジネスくらいしか読めるものがなく、漫画とか本とかCDを買うには、フェリーに乗って香港にあるそごう百貨店まで行かないといけなかったんです。『週刊少年ジャンプ』も飛び飛びでしか読めませんでした。そのころの深圳の日系スーパーといえば、市街地にあるショッピングセンターに西武百貨店やジャスコのテナントが入っているくらいで」

 ある日、そんなジャスコの本屋に雑誌『CUTiE』が置かれるようになったそうだ。私も小学生のときに買っていた。発売日になったら本屋に駆けていき、端から端まで読むのを楽しみにしていたファッション雑誌。私とは別の場所で暮らしていた櫻子さんもまた、楽しみにしていた。

「ジャスコの本屋は小さなコンビニくらいのラインナップだけど、本当に精神的に救われていました。けれども、いつものようにショッピングセンターの駐車場に車を止めてジャスコへ行ったら、臨時休業になっていて。おや? と思って正面入口に出てみると、ジャスコ側のガラス張りのテナント外壁へ石を投げる反日デモを見てしまって。外壁には傷やヒビが入っていて、状況を理解しました。ちょうど小学6年生の頃、たしか小泉首相が靖国神社に参拝した頃だったと思います。それを見て、具合が悪くなって。それまでもルーツについて考えていたけど、悪意が可視化されたことで、“反日”も、“嫌中”も、すべての言葉が自分に刺さって、なかなか捌くことができなかった」
 その一件がきっかけとなって体を崩し、日本に戻ることになる。

 この話を聞いているあいだ、私は「わかる」という相槌を一度もしていないことに気づいた。誰かと話すときについ口をついて出る、いつもの言葉なのに。それくらい自分を重ねることの難しさを感じながら、ぬかるんだ道の、靴の裏にまとわりつく泥の感触を思い浮かべていた。まっすぐ歩きたくても足をすくわれて歩いていけない、あの感覚。

 櫻子さんは小学6年生で東京に戻ったあと、中学は再び深圳の学校に通うことになったそうだ。卒業式の次の日に深圳に向かい、たくさんの人が暮らす小さな街のようになっている一区画にあるコンドミニアムで生活することになる。当時の深圳は不動産バブルが始まっていたものの、駅もまだなく、学校へ向かう道も未だにぬかるんでいたという。

「コンドミニアムにあった23歳くらいの女の子がやっていた雑貨屋さんで、ピアスが一回十元(当時150円程度)で開けられたから、中1の頃はよく開けに行っていて。だからなぜか5つも穴が開いているんですよね。なんにもすることがなくて、友達がいなくてもできることをするしかないから、ピアスを開けるか、インターネットをしていて。インターネットは自分の中では花様年華って感じでした」

 私も当時、インターネットにのめり込んでいた。いまは誰もが日常の中で行っているものだけど、私たちが小中学生の頃は同世代でネットを見ている人は少なかったのだ。自分のホームページをつくって、会ったことがない誰かの日常を見る毎日。同盟、ロケットBBS、CGI、ふみコミュ、素材屋さん、「0574」というランキングサイト。当時のネットをやっていた人だからこそわかる合言葉みたいな言葉を並べながら、泣けるね、もしかしたらそこで巡り合っていたかもしれないよね、と急に感慨深くなる。
 その頃の私はずっと同じ場所で暮らし、学校で同じ人たちと顔を合わせる毎日のなかで、なにかうまく馴染めないと感じる瞬間が多く、インターネットに居場所を求めていたと思う。自宅に帰るとパソコンをまず開き、自分のホームページになにか書き込みがないかチェックして、好きな人たちのページが更新されていないか巡回する。
 当時見ていたホームページを運営する人たちは、学校や家では話せない話を誰かに聞いてもらいたい欲求を抱えている人が多かったように思う。誰にも言えない悩みだったり、誰にでもわかってもらう必要はない自分の好きなものの話だったり。
 小学生の頃、ネットで親しくなった人が、連絡を取り合い始めてからだいぶ後に遠くの国で暮らしていることがわかったときがあった。そのときの経験が、異なる場所で生きながら重なり合う部分を持つ人たちがこの世界のどこかで生きているのだ、ということに対して私がこんなにも強い関心を持つきっかけになったように感じる。

 一見近しい部分を多く持つ、同じような環境で生きてきた人たちとずっと一緒にいる生活に居心地の悪さを感じていた私にとって、インターネットは自分とは異なる部分を持つ人がいる場所へと行くための手段だった。でも、「自分がマジョリティだと感じた実感が少ない」と話しているように、同じ部分を持った人がいない状況に置かれることが多かった櫻子さんにとっては、どこかへ行くための欲望を叶える場所ではなく、「避暑地」のような感覚があったそうだ。「万季さんにとっては移動する場所で、私は帰宅する拠点がほしかった」という話を聞いて、お互いにとって意味合いは違えど、あの頃のインターネット空間はある種、私たちが共有できる懐かしい景色の一つのように感じた。

 インターネットに加えて、本や音楽の存在も櫻子さんにとって帰る場所の一つだった。日本の古本屋で買ったバトルロワイヤル、コバルト文庫の日向章一郎作品や『マリア様が見てる』。正規品のCDは香港まで行かないと買うことができなかったけれど、当時は深圳の街中で宇多田ヒカルや浜崎あゆみやBoAなどJ-POPのCDのコピー品が出回っていたそうだ。

「例えば、当時みんなが聴いていた宇多田ヒカルの曲を聴いているとき、普段生活のなかで感じることのないマジョリティの一体感を感じて、そこに帰属意識がついちゃうっていうか。音楽や文学は国境がないので、身の置き場のなさをカルチャーが助けてくれた感じがします」

 深圳で通っていた中学校は半年で辞めて、中学2年生の頃に日本に戻ることになる。学生生活自体に対する不安はなかったけど、アイデンティティ・クライシスが重くなり、いろんなことで気を紛らわせていたものの、折り合いをつけるのが難しくなったことが大きかった、と櫻子さんは話す。

「弱ってるわりに元気だったのは、深圳のおおらかさがあったからだと思う。悩むこともあるけど、若い移民都市だったからか、日常生活は他者との違いや変化に寛容で。のびのび生活できたし、私も勝気だったからか、ひどいいじめとかもなかったし。ありえないようなことをたくさん経験できたと思います。つらい時期もあったけれど、それしかなかったわけではないし、そうした時期にも生活はあった」

 時間が流れ、ぬかるみの道はしっかりとしたコンクリートで補整され、次々とビルが立ち、だんだんと街の姿ができあがってくる。それに伴い、母親が深圳に越したときに買ったマンションの価値が大きく上がっていったという。家を買って、売ってを繰り返して、大きくなっていく姿を見て育った櫻子さんは、いま自らマンションを買って運用している。

「私が家を買うのは、もちろん母の背中を見ているのもあるかもしれない。でも、根無草だから、やっぱり根がある人が羨ましいんです。いつも自分で自分を決めなくてはいけなくて、暮らすときにはなにかの理由が必要で、どこに行っても自分は“外様”だから」と櫻子さんは言う。不動産は「動かずにそこにあるもの」だ。家を購入し所有するということは、単純に物理的な拠点を持つという意味以上に、理由なくそこにいることができるというたしかな根拠をもたらしてくれるものでもあるように思う。

「日本の小学校に、初恋の男の子がいたんです。高校生の頃、父親と車に乗っていたときにその子の家の前を通りかかって、助手席で『私の友達、ここに住んでるよ』って父に言ったら、『ここは昔、賃貸を断られたから、嫌い』って言われて。その子はおじいちゃんがマンションや立体駐車場を持っているような子でした。物件は所有者が成約条件を決めるものだから、『呉』という名字を見て、外国人だからと断られたのかもしれないです。父からしたら私の初恋は知る由もないので、私がひとりでに気まずくなってしまったんですけど、同時に父が抱えてきた困難は聞かなければ見えなかった、考えもしなかったことだと思う」

 櫻子さんのお父さんは毛沢東の故郷である湖南省にある教師家系の家で育ち、彼が率いた文化大革命の影響で当時貧しい生活を強いられていたという。資産家や知識人、教育者が迫害・拘束され、彼らの書籍や芸術作品が焼かれたりした文化大革命。それでも父の実家には、家族写真よりも大きなサイズの毛沢東の写真が飾られ、毛沢東の絵が描かれたブリキのコップもあったそうだ。たとえ資産が奪われたとしても、毛沢東は戦争で困難を乗り越えた象徴として地元では誇りに思っていた人々も多かった。
 所有していたものを奪われること。あるいは政治的な制約によってその所有権を制限されること。それは櫻子さんのお父さんにとっても、そして現在の櫻子さんにとっても、深い意味を持つ。持っていたはずの戸籍がないことになった、櫻子さんのおばあさんにとっても。そしていま、櫻子さんは自らが家の所有者となり、誰を受け入れるかの条件をつくる立場に立ち、それが個人の尺度に委ねられていることの難しさを感じているという。

 東京の住吉と、中国の深圳。二つの場所にまつわる記憶を行き来していたら、あっという間に日が暮れていた。気づくと飲み物二杯でだいぶねばってしまっていたけど、イメージでしか捉えていなかった二つの街は、もうまったく他人の顔をしていなかった。

「深圳は自分ってなんだろうと考えさせられる場所。自分のステートメントを常に持っていないといけないし、全部自分で選択しなくてはいけない、という気持ちになる。日本にずっといたら、絶対ピアスの穴を5つも開けなかったと思います。江東区の景色はいつも安心するし、穏やかな気持ちになる」

 悩みを抱えていた「呉」の名字は、大学4年生になったときに実家から戸籍を抜いて、「富沢」になった。未成年では戸籍から抜けることはできないうえに、名字を変えるためにはそれ相応の理由が必要なので、家庭裁判所に7回くらい訪れ、さまざまな資料を提出して、やっと許可をもらえたそうだ。改名についてSNSに書いたら、同様の悩みを抱える人からダイレクトメッセージで質問されたこともあったという。

「ルーツが異なると、その分しっかりしていないといけないんじゃないかという足枷みたいなものがあって、いい加減に生きることができないように感じて。個人で異なるのに『これだから何人は』と言ってくる人もいるから、普通に生活しているだけでなにかを聞かれて説明しなくてはいけないタイミングがきたりする。そのときに『なにも知りません』で通せたらいいんですけど、知っておかなきゃいけないかなと思って、勉強しちゃうんですよね」

 この国では、私たちはみんな同じだよね、という空気感が強い。だからこそ、違いがないように、なるべく杭が出ないように、穏便に生きていく。私もそんなふうに育ってきたな、と思う。でもそのなかには、自分の違いをひた隠しにしなければならなかった人もいるはずだ。ルーツの違いはもちろん、それ以外の違いも。
 本来、人間は一人ひとりまったく違う生きものであって、まったく違うなかにそれぞれ重なる部分があるはずで、一見、全然違うように見えるあの人と自分が重なることもあれば、似ているような誰かと実はまったく違うこともある。そういうことを当たり前に信じていけたほうが、世界はずっとおもしろく感じられるはずなのに。困難が多いことはわかっていながらも、いつもそんなふうに願ってしまう。なにか都合のいい言葉で括って違いを排除していくやり方は、自分自身が思春期の頃からずっと感じていた、世界に対する居心地の悪さともはっきりと通じているからこそ。

 カフェを出て、少し歩くと現代美術館があり、いつのまにか見慣れた道を歩いていたことに気づく。知らない道も、ずっと歩いていけば身近な場所へと通じているのだな、と思う。駅で櫻子さんと別れて、帰りの電車のなかで今日の話をどう書こうかと考えながらメモをとっていた。

 しばらく経って、いざ本腰を入れてこの原稿を書こうとした2024年9月、深圳であまりにも恐ろしい事件があった。深圳日本人学校に通っていた日本人の父親と中国人の母親を持つ日本国籍の男児が、刃物を持った男に刺殺されたという事件だ。その日は柳条湖事件(満州事変)の記念日とされていて、中国のインターネット上のナショナリズムや反日的な言説が影響を与えたのではないかと言われている。話を聞いてすぐ、こんな事件が起きるなんて。櫻子さんから聞いた話をどう書けばいいのかすごく悩み、時間だけが過ぎていった。訪れたこともないのに、深圳にまつわる話を書いていいのだろうか、とも考えた。同時に、訪れたことがなかったとしても、私にとって深圳は知らない場所ではなくなっていた。

 時間が経ち、櫻子さんとも連絡を取り合ううちに、私は深圳という場所で暮らしていたあるひとりの話について書きたかったのだ、ということにあらためて気づかされた。なにか大きな枠組みに回収されることなく、彼女と深圳の関係を書きたいと思っていたのに、大きな文脈のなかで語る必要があるのではないか、と無意識に考えていたことに気づいた。すべてを知る、わかるということは決してできない。それでも、見ないふりをせず、必要に駆られて語るための努力をしてきた本人だけでなく、まったく違う場所で暮らす、彼女と思春期にインターネットという場所を共有し、いま気持ちを重ねることができる私のようなひとりが、小さくでも語ることができるもうひとりになれたなら。

 彼女がそれぞれの場所で過ごした記憶の一つひとつが、私の頭の中にあるそれぞれの街の地図に書き込まれていった。そうなるともう、街に対して他者のような顔をしていられない。そんなふうにして、知らないふりをできないような場所を、人を、ものごとを、どんどんと増やしていくのだ。あちらは違うもの、となんにも見ずに簡単に分けるような言説に立ち向かっていくためにも。

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※『中国残留孤児 70年の孤独』によると「夫婦2人の時は、個人に対する老齢基礎年金の満額 (月額約66,000円)に加えて、 生活保護と同水準の支援金を受給できる。だが、もし孤児側が先に亡くなれば、 この支援金だけとなり、生活は相当困難なものとなる。そして、ついに2013年12月、新たな配偶者支援策を盛り込んだ改正法案が臨時国会で可決・ 成立したのだった。配偶者支援策拡充施行は、2014年10月1日。孤児を先に亡くした場合、配偶者は老齢基礎年金の約3分の2にあたる金額を『配偶者支援金』として受け取れることになった」と書かれている。配偶者拡充は認められたものの、二世への支援策は無いため、現在でも二世の8割以上が生活保護受給という現実がある。請願は昨年までの国会でも審議未了だそうだ。

参考

山川域を異にすれども、風月天を同じうす/富沢櫻子(me and you)

中国残留孤児らの「戦時死亡宣告」とは?(日本共産党)

〈1981年の今日〉3月2日 : 中国残留日本人孤児、初来日(nippon.com)

49歳で帰国、職転々 中国残留日本人2世に支援を(朝日新聞)

8割以上が生活保護受給という苦難 中国残留孤児2世 日本語習得のつまづき、暮らしに影(神戸新聞)

第213回国会  中国帰国者二世の生活支援等に関する請願(衆議院) 2024年

『中国残留孤児 70年の孤独』平井美帆(集英社インターナショナル)

◆一緒に歩いた人

富沢櫻子(とみざわ・えいこ)

ekot spectrum works 主宰
幼少期から東京、香港、大陸各地での生活を経て、 2015年からナラティヴでアンニュイな世界観、無国籍な佇まいのアロマワックスサシェを製作する「檸檬はソワレ」として活動。2018年より、より裾野を広げた制作・提案を目的とした『ekot spectrum works』を立ち上げる。主軸の創作活動以外にも、ミニチュアプレイング、文筆やエッセイ、書評の執筆と、インディペンダントに活動の幅を広げている。現在は東京を拠点に活動中。

 

プロフィール