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偶然の祖母
野村由芽 すみ湖
偶然、祖母と孫という関係に生まれついた二人が“家族”と“心友”のあいだを行き来しながら生活や編み物や社会について一緒に言葉を編むこと。時をこえてあなたがここにいたということを思い出せるために。
1986年生まれの編集者 / me and youの野村由芽と、1935年生まれの祖母・すみ湖。51歳差の往復書簡。
三通目:移ろいの手前、サンルームと繕われる袖(野村由芽)
すぐ隣の部屋にいるおばあちゃんへ (2025年9月1日)
また来月に、という言葉をもらってから、またたくまに時が経ってしまいました。いま、おばあちゃんちの隣の部屋で手紙を書いています。目の前にはサンルームの大きな窓が広がっていて、平べったいプリンのようなかたちの青々とした山が見える。またたくまに時が経つならば、まばたきをする一瞬一瞬のたびに、季節が変わっていくということだよね。だからこの青色も、まばたきした次の瞬間に、本当は少し違った色になっている。人間の目ではそこまでの微細な変化は捉えられないけれど、この夢みたいなサンルームから見える景色の前に立ち尽くしては、子どもの頃から何度も、何度も救われてきたことは忘れられない。そう考えると、移り変わるということ自体に癒されて回復する効果があるのかな。
8月、『黒い雨』の映画を観ました。茨木のり子の『言の葉さやげ』に井伏鱒二の『厄除け詩集』が論じられていたこともあって。いま本が手元にないからうろ覚えなんだけど、おかしみの滲む豊かな詩集だと紹介されていた印象。井伏鱒二は、小学校の頃の教科書で読んだというような、どうしてもかたくるしい印象があったからその紹介は意外だった。
映画は、昭和20年8月6日に、主人公の姪・矢須子がトラックに乗って広島に疎開してくるシーンからはじまっていて。蝉がしゃぁしゃぁ鳴いている。
「昨日、工場長に欠勤届を提出し、今朝はご近所のノジマさんのトラックで疎開の荷物を運ぶ。
内容は、おばさんの夏冬の紋付、帯3本、冬着三枚、そのうち曾祖母さんの嫁入りのときに着てきたという黄八丈、これは大事な品。
おじさんの冬のモーニング。紋付。わたしの夏冬の式服。帯3本、女学校の卒業証書」
甘ったるくって、舌足らずな田中好子の声が耳のなかで溶ける。この夏、着物の森の入り口に立ちかけて、だから冒頭から黄八丈が出てきて、お、と前のめりになった。メルカリというフリマアプリでお気に入りに保存したばかりだった。どの作品を観るか、今日をどんなふうに過ごすか、どんな選択ひとつをとっても、やがて自分ごとになるものごととの出会いは、一本の線ではなく、無数の線が編まれた交差点で生まれるという感覚がある。茨木のり子の言葉。着物への関心。8月という季節。おじいちゃんの生まれが広島であること。おじいちゃんのいとこたちが原爆に遭っていること。おばあちゃんに手紙を書く約束が、日々頭の片隅で踊っていること(遅れてしまっていても、じぶじぶと考えているのです……)。そういうものが交差したところに、わたしにとっての『黒い雨』がある。
どれも自分本意のちりぢりとした経験と、語りばかり。でも、それを個人的なものだとひるまないでいたいというのは、おばあちゃんからこぼれる縷々とした無数の思い出話が、ひとの無限さはここにあると教えてくれたからだと思う。自分が持ち合わせているものは、世界のほんの断片であるという事実にできる限りの客観性と謙虚さを持ちながらも、そのささやかさを堂々と、懸命に、手放さないでわたしも生きていきたいものです。
誰に対して背負う必要もないのに、誓いを立てるようにその思いを握り締め続けてる。そんな自分が時に息苦しくなるし、でもこれがわたしでもある。よくわからない。自分を追い込んでパニックになってしまうことが少なくないから、最近は同居人のアンディさんがわたしを「本来は平地で暮らす(関東平野出身だから)まったりたぬき」と呼んでなだめるようになって(?)、だいぶ助けられているよ。おばあちゃんにはそういう、自分にこびりついた毒にも薬にもなる性質みたいなものってあるのかしら。
『黒い雨』では、被爆を経験した主人公の重松が、テレビから流れてくる1950年の朝鮮戦争の特需に沸き立つニュースを前に、「正義の戦争より不正義の平和のほうがまだましやいうことがなんでわからんのかの」と言うのね。これをわたしは、なにか大切なことのように思った。今年、着物を纏いたいと思ったのは、ここ数年足を運んでいる長岡の花火のためだったのだけれど、長岡空襲の起きた8月1日には灯篭流しもあって
「皆が幸せでありますように」
「争いがなくなりますように」
「戦争がなくなりますように」
「かなしみがなくなりますように!」
と手書きされた灯りがたくさん川下に流れていくのをみた。自分だけではなく、誰かをも含めた幸せや、かなしみの霧散を思う願いがこんなにあるのに、戦争や侵略や虐殺は起こる。iPhoneの天気予報では、任意の地域の天気を登録できるから、わたしは自分が住んでいる渋谷区のほかに、おばあちゃんちのある大津、実家のある宇都宮、あとは旅行した土地や、好きな土地だとかを登録しているのね。
渋谷、大津、宇都宮、高尾、京都、ロンドン、益子、ニューヨーク、尾道、石垣、台北、高尾、ガザ
7月末から8月にかけて、わたしの不規則な観測範囲では、ガザばかりがいつも晴れている。どの時間も、異様なほどにお日様マークが並んでいる。少し調べたら、ガザではこの暑さも避難生活を苦しめていて、熱中症とみられる症状が多く報告され、難民キャンプでからだを寄せ合えばお互いの体温で暑さが増す状況であるそうだった。ひととひとがからだを寄せ合うことが、互いを傷つけてしまうってどこまで残酷な状態をつくりだしているんだろうと思う。
昨夜、おばあちゃんの家に着いて玄関で手をとったとき、おばあちゃんの手は白玉粉の山に手を入れたようにさらりとわたしの手に吸い付いて、少しひんやりしていた。『黒い雨』では、放射性物質を含む黒い雨が降ったとき、「暑い日だったのにぞくぞくするほど寒い」とナレーションが入っていた。原爆のあとは、蝉の声もしなくなったと聞いたことがある。生き物が生きられなくなるほどの、急激な状況の変化。戦争や病気、地震、肌の「老化」……。わたしにとって、どこか死というものを感じさせる変化にあたるできごとを思い浮かべると、不安でいっぱいになる。だから、という接続詞は正しくないかもしれないと頭では理解しつつ、子どもを産むことに対しても個人的に恐れを感じてしまう。からだの変化に敏感で、ちょっとしたことでも怯えやすい自分の心身を踏まえると耐えられないだろうと想像して、足踏みを続けている。けれど、サンルームから見える景色がそうだったように、移り変わるものは生きるものを守り、癒しもすると実感しはじめているはずで、よくわからない。自分のなかで、何本かの線が交差するのにまだ時間がかかるのだと思う。それなのに、子どもをもつか、もたないかということの選択にかけられる時間には、限りがあってしんどいね。ね、と終えるのはずるいか。
わたしが持参した裄丈の短い銘仙の袖を、いま隣の部屋でおばあちゃんが直してくれています。汚れもあるけれど、まだまだ着られる美しい布の実在感に一目惚れしたもの。いつも真剣に丁寧に直してくれて、胸がぎゅっとなる。けど、その景色を噛み締めすぎず、当たり前みたいなふりをして眺めています。そうすればこの景色があと5年も10年も繰り返し続くような気がする。マイ神様への我流の祈り。折り鶴の模様の名古屋帯と、揃えなければいけなかった長襦袢、サイズぴったりの足袋もありがとう。足のサイズが同じだとはじめて知った。
おばあちゃんの高校時代の新聞部の後輩で文通相手のFさんから、「お孫さんに」と絣の手縫いの着物が贈られていたとは(そんなことあるのか)、どうかお礼をお伝えください。わたしは子どもをもたない人生を送るかもしれないけれど、おばあちゃんやFさんのように、家族であるかどうかを問わず、大切なひとにはこんなふうにさっぱりと惜しみなく愛しさをわけあたえられるような人になりたいな。まだまだ余裕がなく、欲が深く、怖いものが多く、その域には達していないものの、おばあちゃんから受け取った時間から、そんなことを着々と教わっているはずだと感じます。
昨夜、わたしはよく眠れなかったと、今日話したよね。それは実は、おばあちゃんちに闇バイトが来たらどうしようと不安になっていたというのがありまして……。でも一通りドキドキしたあとに、気づいたことがある。わたしが恐れに飲み込まれているときは、ひとと一緒にいることで、弱くなってしまっているときであること。大切なひとやものや記憶を守りたいから、怖くなる。けれど、いま家族、友人、仕事と、迷惑をかけて後悔を繰り返しながらいいひとたちに一緒にいてもらっているのだから、ひとといることで強くなれる自分であれたらよいと思い直したら、すうっと眠れた。強さというのは、誰かを凌駕するような類のものではなくて、足元をすくわれない、灯台のようにたたずめる魂の足腰とでもいうか。平地生まれのたぬきで海が身近になくても、灯台になれたらいい。今日はこのへんで。この1週間、おばあちゃんちで過ごせるのが楽しみ。同じ家にいられてうれしい。当たり前じゃない時間を、当たり前みたいに過ごそうね。鈴虫が鳴いてて、とんぼが舞って、小さなバッタが訪問してきた夜に。
# knitting notes
麦わら帽子の素材で編んだハートのバッグ
参院選の特番をみていた晩に即興で編んだバッグ。意識していないつもりだったけれど、おばあちゃんが編んだコースターにどこか似ていた。どうしてだ。
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野村由芽
編集と執筆、聞き手。2017年、メディア・コミュニティ「She is」を竹中万季と立ち上げ編集長を務めた後、2021年にme and youとして共に独立。2025年春、文と編集を担当した『わたしを編む つくる力を、手のうちに YUKI FUJISAWA制作日記』が刊行。生きることを手でつくること、自分や世界を探求するためのよすがとしての、個人的な編み物プロジェクト「grandma’s gang」をこつこつ進めている。
https://www.instagram.com/ymue/
https://www.instagram.com/grandmas__gang/
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すみ湖
1935年生まれ。幼少期に日本舞踊を習い、学生時代は新聞部に所属。主婦をしながら、日々の合間に日記や随筆、俳句などの文章を綴る。手仕事と読書が好き。人生で大切にしているのは、つくること。湖にほど近い街に暮らす。
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プロフィール

野村由芽
編集と執筆、聞き手。2017年、メディア・コミュニティ「She is」を竹中万季と立ち上げ編集長を務めた後、2021年にme and youとして共に独立。2025年春、文と編集を担当した『わたしを編む つくる力を、手のうちに YUKI FUJISAWA制作日記』が刊行。生きることを手でつくること、自分や世界を探求するためのよすがとしての、個人的な編み物プロジェクト「grandma’s gang」をこつこつ進めている。
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すみ湖
1935年生まれ。幼少期に日本舞踊を習い、学生時代は新聞部に所属。主婦をしながら、日々の合間に日記や随筆、俳句などの文章を綴る。手仕事と読書が好き。人生で大切にしているのは、つくること。湖にほど近い街に暮らす。