twililight web magazine
偶然の祖母
野村由芽 すみ湖
偶然、祖母と孫という関係に生まれついた二人が“家族”と“心友”のあいだを行き来しながら生活や編み物や社会について一緒に言葉を編むこと。時をこえてあなたがここにいたということを思い出せるために。
1986年生まれの編集者 / me and youの野村由芽と、1935年生まれの祖母・すみ湖。51歳差の往復書簡。
四通目:8月の青い空(すみ湖)
心友 由芽ちゃんへ(2025年9月11日)
8月31日から9月9日まで、こちらに滞在していた由芽ちゃんとの目々、おばあちゃんは日頃の怠け者を少しだけ返上して背筋を伸ばしていました。
と、言っても、後ろ姿は曲がっていたかもしれませんね。
由芽ちゃんからはいろいろとパワーをもらいました。由芽ちゃんはわたしの「活性剤」。眠りかけている細胞が生気を取りもどした感覚でした。
毎年8月になると、いろいろと思い出します。
原爆投下の広島
由芽ちゃんの手紙は井伏鱒二原作の『黒い雨』の映画から始まっています。
わたしの夫(由芽ちゃんのおじいちゃん)は当時、広島市内の高校(当時は中等学校)に通っていました。原爆投下の8月6日は夏休みで故郷の瀬戸内海にある気近くの蒲刈島に帰っていて難を逃れました。
8月の青い空に奇妙な形の巨大な雲が湧きあがるのを見て、一体何事が起こったのかと、大騒ぎになったと話してくれました。
広島市内に原子爆弾という新型爆弾が落とされたと知ると、義父は親類縁者、知人の安否を気遣って即、広島市内へと出かけて、あちこちと探し廻ったそうです。広島市内の病院で看護婦(現看護師)をしていた姪は亡くなっていました。その後、知人、友人を探しまわったことの他は、詳しくは話してはくれませんでした。
原爆直後の広島市中を歩き廻ったことで、勧められて後年、「原爆手帳」を申請し、大切に持っていました。幸い、はっきりとした症状は出なかったようですが、毎年、検査を受けていたとのことでした。
親しい人を何人も原爆で失ってしまったらしい義父の口は堅く、自分の口からはその時のことをほとんど語ることはありませんでした。
学童疎開
これから書くことは当時、8歳から10歳の少女のわたしの戦争中のできごとです。戦中戦後の悲惨なニュースに比べると、個人的なささやかな体験と言えるかもしれません。でも、戦争に巻き込まれると、庶民の平凡な日常が否応なしに奪われてゆくことを書き残して置くべきだと考えました。
1944年8月、国民学校(戦争中の小学校の名称)3年生のわたしは30数名の級友と3人の先生と一緒に親元を離れて、奈良県吉野郡吉野町の寺に向かっていました。
大阪市天王寺区に住んでいた、わたしたちは市内から離れた農村部に親類縁者などのいない学童疎開児でした。これは戦況の激しくなる中、国が決めた方針でした。
わたしたちは近鉄「大和上市」で降り立ちました。一駅先の終点「吉野」は千本桜で有名な桜の名所の入り口です。
わたしたちには、ひとりひとりにさつま芋の入った袋を手渡されました。さつま芋はその後のわたしたちの主食でした。
背中にはリュックサック、中には洗面具、箸、茶碗、コップ、胃腸薬などが入っていました。おかっぱ頭に青白い顔。白いブラウスにモンペ、すっぽりと足の入るゴム靴を履いていました。ブラウスの胸には大きな名札が縫い付けてありました。氏名、性別、年齢、生年月日、血液型、親の住所氏名、が白い布地に墨字で書かれていました。
肩からは防空頭巾という座布団を二つ折にして、下部の分かれた型の綿入れの頭巾をかけていました。
「警戒警報」「空襲報」のけたたましいサイレンが鳴り響くと、この頭巾を被るのです。
これが1944年8月、吉野川沿いの青い空の下を歩いていたわたしの姿です。
数ヶ月の学童疎開生活の間に季節は秋から冬へ。吉野の冬の寒さは身体を凍らせました。暖房などなく、各自、親から送られて来た柳こうりに入っていた衣類を重ね着してしのぎました。夜はそのまま毛布一枚にくるまって、すき間風の入る寺の本堂で眠りました。
風呂に入ったのは夏の終わりの一回だけ。吉野川の河原を5分ほど歩いた所にある長い橋を渡った先の「上市」にあるお風呂屋さんでした。この長い橋の手前に浅瀬を渡る短い丸太橋がありました。ひとりひとり渡るのですが、足が震えてわたしは転げ落ちてしまいました。「ばかもんっ」と叱られ、泣くこともできませんでした。
皮膚の弱いわたしは空腹と栄養失調のため、やせ細り、身体にシラミがわきました。足には凍傷のようになって崩れた、しもやけが靴下に張り付いて脱ぐこともできず、ひたすら傷みに耐えていました。手当などしてもらえなかったのです。立って歩くこともできず、床を這って生活していました。
1944年12月、実家が大阪南郊の岸和田市へ疎開したため、翌年1月、母に背負われて、そこに引き取られました。赤ん坊でもないわたしを背負ってくれた母。でも、わたしの記憶は、岸和田の家にたどり着いた後、温かいお湯のたっぷりと入った大きなバケツに両足をひたして、ほっこりとしている姿まで飛んでしまっているのです。お母さん、ごめんなさい。
天王寺の家は3月の大阪大空襲で全焼。12月に疎開していたので家族は生命拾いをしました。
岸和田でも空襲報で庭に掘った防空壕という地下壕に逃げ込む日々が続きました。神戸大空襲のときは海辺に近いわが家から、海を挟んで対岸の火の海を背に、リーダーの大人について、山手の方へと走りに走って逃げました。いまも、あのオレンジ色の水の海が目に浮かびます。
あれから長い年月が経ちました。
甲子園球場では高校野球の球児たちに続いてプロ野球の応援に4万人超の人たちが押し掛けます。8月の青い空に打者の一振りが描く放物線。これが平和と言うものです。戦争がもたらす災禍を実体験していない一部の人たちの気配が恐ろしいこのごろです。わたしはひたすら平和を祈り続けています。
五山の送り火
8月16日は「京都五山の送り火」の日です。東山の如意ヶ嶽の大文字、東山の妙法、賀茂船山の船形、北区衣笠の左大文字、嵯峨の鳥居形、と、順に点火されます。お盆でふるさとに帰って来た御精霊(おしょらい)さんと呼ばれる亡くなった人の御霊をあの世に送り届ける道しるべとして点される火と、言われています。
わたしも夫(由芽ちゃんのおじいちゃん)と出町柳の橋の上に立って、大文字の送り火を見つめたことを思い出します。
点火8時前から出町橋の欄干近くに立っていたのですが、8時直前になると、急に大波が押し寄せるように人波が膨れ上がり、押されて、欄干から逆さまに川に落ちるのではないかと、不安になり、夫にしがみついていました。
その時、橋の真ん中で警備をしていた若い警官がメガホンで叫んだのです。
「部長オーツ助けてくださいイッ……」
その必死の裏返った声に橋の上の全員が、もみくちゃになりながら、笑ったのです。夫もわたしもお腹をよじって笑いました。
夜空に響き渡る打ち上げ花火のような大爆笑でした。
笑いに誘われて、少しずつ人波が動き、押し合いがなくなりました。
そして、点火が始まったのでした。
送り火の 火の色消ゆる まで立てり すみ湖
これが終わると秋の気配を感じたものです。
かなかなや 語り尽くせぬ 物語 すみ湖
でも、猛暑続きの今年、かなかなの物語の続きが聞こえてきません。
由芽ちゃんと過ごした一週間あまり、色んな話しができました。和装に目覚めたことも嬉しいことでした。
こどもを持つかどうかの迷いも聞きました。それは、こちらからあれこれと言えることではありません。
由芽ちゃんが由芽ちゃんらしく生きて行く選択はパートナーと納得のゆくまで話し合って下さいね。由芽ちゃんの幸せを願っているおばあちゃんです。
由芽ちゃんがこの間、プレゼントしてくれた花束のなかの珍しいフウセントウワタがはじけて、白い超細い絹糸のような綿? に、びっしりと黒い種を付けています。ヒオウギの実は、三番叟の小型の鈴のような型の実をつけています。
どちらも「種の後も、しばらく観察してね」という由芽ちゃんのアドバイスに従って、毎日、楽しみに変化を見ています。ほんと、植物って、面白いね。
先日、隣りの部屋で、仕事モードの由芽ちゃんの姿を見て、「集中力がすごい」と、感心しました。でも、身体には気をつけて下さいね。では又、来月にね。
すみ湖
# knitting notes
シルクヤーンで編んだセーター
身頃と袖にサクランボをイメージしたコーン編みを入れ、縄編みと透かし編みでアクセントを付けたセーターです。
シルクヤーンが棒針を滑り落ちて編むのに苦労しましたが、何年も愛用している一着です。
—
すみ湖
1935年生まれ。幼少期に日本舞踊を習い、学生時代は新聞部に所属。主婦をしながら、日々の合間に日記や随筆、俳句などの文章を綴る。手仕事と読書が好き。人生で大切にしているのは、つくること。湖にほど近い街に暮らす。
—
野村由芽
編集と執筆、聞き手。2017年、メディア・コミュニティ「She is」を竹中万季と立ち上げ編集長を務めた後、2021年にme and youとして共に独立。2025年春、文と編集を担当した『わたしを編む つくる力を、手のうちに YUKI FUJISAWA制作日記』が刊行。生きることを手でつくること、自分や世界を探求するためのよすがとしての、個人的な編み物プロジェクト「grandma’s gang」をこつこつ進めている。
https://www.instagram.com/ymue/
https://www.instagram.com/grandmas__gang/
Share:
プロフィール

野村由芽
編集と執筆、聞き手。2017年、メディア・コミュニティ「She is」を竹中万季と立ち上げ編集長を務めた後、2021年にme and youとして共に独立。2025年春、文と編集を担当した『わたしを編む つくる力を、手のうちに YUKI FUJISAWA制作日記』が刊行。生きることを手でつくること、自分や世界を探求するためのよすがとしての、個人的な編み物プロジェクト「grandma’s gang」をこつこつ進めている。
—
すみ湖
1935年生まれ。幼少期に日本舞踊を習い、学生時代は新聞部に所属。主婦をしながら、日々の合間に日記や随筆、俳句などの文章を綴る。手仕事と読書が好き。人生で大切にしているのは、つくること。湖にほど近い街に暮らす。