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2025.11.14更新

偶然の祖母

野村由芽 すみ湖

偶然、祖母と孫という関係に生まれついた二人が“家族”と“心友”のあいだを行き来しながら生活や編み物や社会について一緒に言葉を編むこと。時をこえてあなたがここにいたということを思い出せるために。
1986年生まれの編集者 / me and youの野村由芽と、1935年生まれの祖母・すみ湖。51歳差の往復書簡。


六通目:50年前から60年前のわたし(すみ湖)

由芽さんへ(2025年11月3日)

 

50年前のわたしに向けてのお手紙ありがとう。

50年前の1975年わたしは40歳。朱夏の季節のまの盛り。自分を県命に奮い立たせて張り切っていました。

40歳を迎える前の30歳代のことを先ず思い出してみました。

 

朱夏前期というのでしょうか。いろいろの思いが胸の中にうず巻いていました。

1965年3月、30歳のわたしは3歳の長女と、10カ月の長男を抱いて京都伏見から千葉県松戸市の社宅に転居しました。夫の東京転勤で生まれて初めての、関東生活の始まりでした。

住居は鉄筋コンクリートの4階建ての4階。周辺はまだ舗装されておらず、ひとたび風が吹くと砂嵐に見舞われ、うっかり窓を開けておくこともできませんでした。

 

ここでのわたしは「〇〇さんの奥さん」「T子ちゃん、Hくんのお母さん」と呼ばれました。内心、わたし、って何だろう、といら立ちながら、いつもにこにこと笑っていました。

 

30歳代のわたしはPTA活動に誘いこまれ、地域の生活になじむためにも、いろいろな行事に参加しました。中でも忘れられないのは、長男の幼稚園のおゆうぎ会で母親たちが特別参加したミュージカルの「浦島太郎」に出演したことです。衣しょうから、鯛鯛やひらめのお面、玉手箱まで、仲間と楽しみながら手作りしました。小学校のPTA活動では保護者向けの「性教育」について企画し、その道の先生に来ていただくために校長先生にお願いしました。校長先生は講師交渉に力を尽くして下さり、当日は体育館いっぱいの参加者を見てびっくりしました。大成功でした。

 

子どもたちが幼いころからわたしはヴォーグ社の「手あみ通信講座」を受講するかたわら、東京浅草にお住いのやはりヴォーグ関係の手芸の先生宅へ時間を見つけて通っていました。

 

1971年、36歳のとき。ヴォーグ手あみ通信講座高等師範科全課程を卒業し、「手あみ指導員認定書」をもらいました。講師養成講座の次の講座で、ここでのいろいろの見本作りは後の作品作りに役立ちました。

浅草の手芸の先生からも、「日本手芸普及協会指導員認定書」という長い名前の証書をいただきました。この先生からは珍しいレース編みを習いました。タッチングレース、クンストリッケンレース、ボーゲンレース、バテンレース、などです。刺しゅうはフランス刺しゅう、こぎん、スウェーデン刺しゅう、ビーズ編み、スモッキング刺しゅうなどの手法を習いました。

幼なかった長女にスモッキング刺しゅうの入ったワンピースを作ったことを思い出します。水色のギンガムチェックの布地の胸元にスモック刺しゅうを入れ、スモックのところどころに小花刺しゅうを入れました。よく似合って可愛かったなあ……いまも、目に浮かびます。

 

1972年、37歳のとき、PTA活動で知り合った人たちに頼まれて自宅他で「手あみ手芸教室」を開きました。まだ主婦の就職口は少なく、パートタイムで働く人も働く場所は限られていた時代でした。

また、小学校のPTA活動の一つとして、ボランティアとして、講習会を開いたこともあります。

自宅では生徒さんの個性を尊重し、お好みの色柄を相談し、身につけて似合いそうな手あみの作品づくりを、デザイン製図、あみ図作りから指導しました。

 

1973年、38歳のとき、第一次オイルショックが始まりました。日本の高度経済成長が終わるきっかけとなり、スーパーからトイレットペーパー、洗剤が消えるという騒ぎでした。

当時、主婦の働ける職場は、地方ではほとんどありませんでした。その上、幼い子どもや小学生を育てている主婦は、いまのようなパートタイムの仕事もなく、衣料費の高騰にも悩まされたのです。

わたしの教室は趣味会のようなものでしたから、皆さん手作りに熱中して、続けて通ってくれました。

 

1974年、39歳のとき、松戸市民会館会議室を借りて、生徒さん12人全員に1、2点の作品を仕上げてもらい、わたし自身の作品もいっしょに展示して、「手あみ手芸習作展」を開きました。東京からマネキン人形を借り出して展示したので見ごたえがありました。会場には手作り好きが大勢来て下さり、暖かい言葉をいただき、一同、大よろこびをしました。

 

1975年、40歳。オイルショックで世の中が暗くなったとき、5月に女性として初めて田部井淳子さんがエベレスト登頂に成功したというニュースに心踊りました。アイスランドの女性の90%が賃金格差に抗議するために、仕事も家事も一さい休んでストライキ、というニュースも入りました。

わたしはささやかな自分の「手あみ手芸教室」でさえも、夫に遠りょしている自分をかえりみて、情けないなあ、と反省しました。朱夏のSumikoは何かに追い立てられるように自分らしさを求めていましたが、まだまだ力不足でした。Sumikoの収入は微々たるもの。生活費は夫に依存し、わたしのしていることは趣味の延長線上であるとの自覚もあり、平凡な昭和生まれの「船場のこいさん」を脱皮することはできなかったのです。

 

1976年、41歳のとき、夫がもとの京都へ転勤となりました。11年振りの京都伏見の社宅への逆もどりでした。2年後の1978年、43歳のとき、滋賀県大津市に家を建て転居しました。家のローンを払いながら長女、長男の教育費などのやりくりは大変でした。とは言え、社宅を出て、まわりに新しい知人友人などができ、とくに隣人に恵まれ、幸せいっぱいでした。ここでも、ふとしたことから、近くの幼稚園に園児を送り迎えする母親や祖母たちに手あみ手芸を教えることになりました。近くの幼稚園に子どもを送り届けたあと、お迎えまでの3時間ほどの講習会でした。毎週一回の半日保育の日に自転車に乗って出かけました。

 

このころわたし自身は京都で集中講習会を持たれた米山京子先生の「手づくり人形」講習会に参加し、愛らしくて、作りやすい人形を、ここのお母さんや祖母の方々にも作っていただきたいと考えていました。後に創作人形の菊池ともゆき先生の教室に通いつめることになるのですが、それは又、後日の話になります。

 

幼稚園での講習会は一回3時間です。手順を覚えると、後は自宅で仕上げることができる作品作りを目指しました。その頃大流行していたマクラメ編みのベルトやポットハンガーを手はじめに、園児向けのニット帽、マフラー、ミトンへと進みました。米山先生の人形も使ってもらいました。一人で「11体作りました」という人も現われて、米山先生に最敬礼でした。手あみに馴れた人たちから、セーターを編んでみたい、と言い出され、意欲まんまんに押されて、一人一人のセーター作りに向き合いました。みんな熱心でわたしも燃えました。

 

園児たちが登園したあとの母親や祖母さんたちが、外で教室を持ってほしいとか、自宅で教えてほしいなどと申し込まれて、どうしようかと考えているとき、田舎に住んでいる夫の両親に異変が起きました。夫はひとり息子です。やむなく全てを断り遠距離介護に続き、自宅に引き取り、介護生活に入りました。養父は一年後、老すいで亡くなりましたが、認知症になってしまった義母を11年介護しました。この話を書くと長くなりそうなので、ここで打ち止めにします。

 

由芽さんから、40歳ぐらいのころ、Sumikoが書いた文章があれば読んでみたいとラインが入り、さて、と……押入れの上の天袋の中から捨て切れなかった雑文の入った箱を取り出して、一枚見つけました。笑ってください。

 

★もう一人のわたし(40歳)

 

新聞の広告欄を見ていたら地方記者の募集が目につきました。履歴書を共に「わたし」と題した作文を200字詰め原稿用紙2枚以内にまとめ、提出すること、とありました。

いまのわたしが「わたし」を書くとすると、どうなるのだろうか、と試してみました。

 

『わたし』

 

わたしは高校時代、新聞部に所属していました。

広告取りから、取材、原稿校正、割り付けなど、新聞発行前は夜遅くまで印刷所で頑張っていました。当時から記者という職業につきたいと思っていました。

結婚前は大学教授兼作家のS先生の秘書をして、本の出版にかかわりました。結婚、出産、育児、気がつけばわたしは40歳です。子どもたちの親離れが近づいてきました。思い切って外に飛び出し、自分の可能性を試してみたいと思いました。

子育て期間中はPTA活動や、自宅他で「手あみ手芸教室」など地域の人たちとのコミュニケーションにも努めました。

そのような経験を生かして地方記者という仕事に挑戦しようと思います。わたしは、健康で殆ど風邪もひきません。

体力もあります。二児の母としての目を通して、社会に向け発信できる記者を目指します。

 

(当時の原文まま、未提出です)

 

50年後の由芽さんへ

 

90歳の由芽さんはやっぱり由芽さんスタイルですてきでしょうね。

 

あちこちでロボットが動きまわり、原稿もAIくんがパッパッと仕上げるので、由芽さんは「そうじゃないよ」と怒っているかも……ね。

 

老後のためにしっかりと預金をしてきましたか? お金だけではなく、楽しい思い出の預金、美しいすてきな作品に出合った感動の預金、四季それぞれの自然の姿、動物たちの愛らしい姿にときめいていますか。

 

由芽さんが調べた「元気」のもともとは「減気」と書いていた時期があったと考えると、90歳こそ「減気」が必要ですね。よろよろへろへろでも「減気」を出して乗り越えましょう。

 

今日はきれいな夕焼け雲が空いっぱいに拡がっています。うっとりと空を見上げていたらはらはらとプラタナスの一葉が風に舞っています。わたしも、プラタナスに習って舞ってみよう、と立ち上がって、くるーり、と、ひとまわり。あーら、よろけちゃった。でも、まわれたよ。できた、できた、とひとり笑っているそんな90歳を目指して下さいね。

 

減気で元気のすみ湖より

# knitting notes

40歳代に編んだアラン模様のジャケットです。

当時はウエスト65cm未満、ほっそりとしていました。

70歳代になってダルマさんに変身。

そこで同じ糸で、ジャケットの模様の一部を取り入れて編んでいたストールを半分に切ってジャケットの両脇に入れ、着られるように工夫しました。

編地はかなりフェルト化していますが、90歳のいまも愛用しています。

すみ湖

1935年生まれ。幼少期に日本舞踊を習い、学生時代は新聞部に所属。主婦をしながら、日々の合間に日記や随筆、俳句などの文章を綴る。手仕事と読書が好き。人生で大切にしているのは、つくること。湖にほど近い街に暮らす。

野村由芽

編集と執筆、聞き手。2017年、メディア・コミュニティ「She is」を竹中万季と立ち上げ編集長を務めた後、2021年にme and youとして共に独立。2025年春、文と編集を担当した『わたしを編む つくる力を、手のうちに YUKI FUJISAWA制作日記』が刊行。生きることを手でつくること、自分や世界を探求するためのよすがとしての、個人的な編み物プロジェクト「grandma’s gang」をこつこつ進めている。

https://www.instagram.com/ymue/

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