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人といることの、すさまじさとすばらしさ
きくちゆみこ
この連載は、『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』のきくちゆみこさんが、新しく引っ越してきた郊外の団地にて、長年苦手としてきた「人とともにいること」の学びと向き合いながら、日々の出来事を書き綴っていきます。
第12回「身体を持った幽霊」2025年7月𓍦日(木)の日記
早く夜にならないかなあと思っていた。暑くて、眠くて、朝からめちゃくちゃに疲れていて、ずっとベッドで水平に伸びていた。
窓の外から、学校帰りの子どもたちがすぐ下の公園で遊ぶ声が聞こえてくる。照りつける太陽もおかまいなしに、全力で鬼ごっこをしているらしい。お迎えに行っていた松樹は、藤棚の下のベンチに座ってほかの保護者たちとその様子を眺めているはずだ。学期末の行事や夏休みの予定について話しながら、エンドレスで寄ってくる蚊をぺちぺちと撃退する。それがこの夏のお迎えのルーティーンになっていた。
夜になって、太陽の光がこの町のどこにも届かなくなったら、外に出られるかもしれない。カーテンをジャっと閉じ、タオルケットをかぶって考える。でもいまは、とにかくぜんぶがまぶしすぎる。
*
広いはずの自転車置き場はいつも満杯でぎちぎちで、電動の重たい車体を引きずり出すだけでも汗がおでこに浮いてくる。スタンドを上げてロックを外し、キュロットの裾をばさっと捌いてサドルにお尻を乗せた。
のっぺらぼうになりたかった。すでにシャワーも浴びていて、メイクもぜんぶ落としている。でも何よりも、愛想笑いを浮かべたり、元気すぎる子どもたちにこっそり眉根を寄せたりすることもなく、何もないまっさらな顔で、この町を自転車で駆け抜けてみたかった。
ふと遠くに目をやると、こんもり茂った木々のふちが白く輝いているのが見える。時刻は午後11時、でも7月の夜はいつまで経っても深まらない。お日さまの名残はそこかしこに潜んでいて、うつむきながらペダルをぐっと踏み込んだ。
自転車にまたがるわたしは、車のハンドルを握るわたしよりもずっと無防備でたよりない。車はほとんど自宅と地続きで、ひとりでコンビニの納豆巻きにかぶりついたり、シートを思い切り倒してぐうぐう昼寝をしたりもする。でも自転車の上では、わたしは舞台に上げられた見世物みたいだ。乗れるようになって1年以上経つのに、いまだに漕ぎ出す際にはペダルを何度も空回りさせている。
団地内の遊歩道、赤みちをしばらく進んでいく。梅雨が明けていないからなのか、夜は風が涼しかった。40歳を過ぎてようやく知った「風を切る」という感覚、その何ものにも変えがたい爽快感と、慣れない速度がもたらす緊張にぞわっと鳥肌を立てながら、思わず歌を口ずさんでいた。
乗っ取って 僕を乗っ取って 身体はいらないから…
–「ghost」/踊ってばかりの国
魂だけでいられたら、どんなによかっただろう! 坂道をぐんぐん下りながら、きゅっと胃が浮くのを感じる。「たましい」という言葉を知って以来、何度も反芻しつづけてきた密かな願い――身体を離れて、あなたと出会うことができたなら。外見からわかる属性や先入観をぜんぶなくして、作った表情も隠したい身体の部位も気にすることなく、ぴかぴかの魂と魂そのままで。
高校生ではじめてインターネットにアクセスしたとき、願いが叶った、と思った。日本ではあまり話題にならなかったイギリスのクィア・バンドの追っかけをして、見知らぬ人たちと「メーリングリスト」でつながっていた十代のころ。一度だけ、そのメンバーでオフ会が開かれたことがあった。ロンドン在住でいつもフレッシュな情報を送ってくれる管理人が一時帰国をするというので、西新宿の小さなレンタルルームに集まったのだ。住所をしっかり両親に伝え、電車を乗り継ぎびくびくしながら向かったその部屋で、わたしはどんな話をしたんだっけ。
ほとんどが年上の女性たちで、わたしだけが高校生だった。でもまるで、まだ卒業すらしたことのない、高校の同窓会にでも参加しているような、そんな強烈ななつかしさを感じたのをおぼえている。みんなでお菓子を食べながら、主催者が準備してくれた楽曲のイントロゲームをした。うっかり優勝してしまったわたしは、賞品に雑誌の切り抜きがコラージュされたお手製の卓上カレンダーをもらった。すごくうれしくて、帰りの京急線に揺られながら何度もかばんから取り出した。2001年、翌年のカレンダー。来日公演が予定されていた1月の日付には、大きく💋マークが描かれていた。はじめから終わりまで、すべてが夢のなかのできごとみたいだった。あの人たちはいま、みんなどこにいるんだろう?
「おい、おれたちは永遠に、互いのことをわかるんだぜ」とビックスが言う。「消息がわからなくなるって時代は、もう終わりかけてる」 […]
「おれたちはみんな体を離れて、霊魂の状態で互いを見つけるんだ。その新しい場所で、みんな再会する。全員がいっぺんに。最初は変な感じがするだろう。だがすぐに、連絡を取れなかったり、連絡してもらえなかったりすることのほうが変だったと思うようになる」
ビックスは知ってるんだ、ときみは思う――あのコンピューターに向かいながら、もうずっと前からわかってたんだと。
–『ならずものがやってくる』10章「体を離れて」/ジェニファー・イーガン/早川書房/2012
テクノロジーが開いてくれる、そんなユートピア的世界にものすごく救われながら、毎日似合わない制服を着て、駅の鏡に映る姿に落胆しながら通学していたあのころ。「Teenage Angst」、自分のいちばん隠したい部分を、無理矢理さらされてしまうことの苦しさ。あのバンドのデビューアルバムには、そんなティーンエイジャーの不安をまっすぐに歌った曲が収められている。
いまでもそうだ、あなたの前に身体をさらしたとたん、わたしは不安でたまらない。確かにここにいるはずなのに、どの瞬間よりもここにいられない。頭のなかの電算機が、超高速でデータを送ってくる。今日の服これじゃないほうがよかったかな、こうして笑ってればこのほうれい線気づかれにくいはず、あ、いま目が左右に動いたみたい、わたしのどこを見てるんだろう? 口紅が歯についちゃってるとか? それにしても、さっきよりも相づちが減ったのはなぜ――? 自分では見られない自分の身体が、相手にはまるごと見えているという無防備さ、その透明性。そこから跳ね返されるように相手から発信される些細なジェスチャーや表情の変化。そんな雄弁すぎる身体のメッセージに圧倒されて、それでもあなたとの会話にいつも全力でしがみついている。
「疲れたよ、ホントに疲れたよ」――ぐんぐんスピードを上げながら、周囲に誰もいないのをいいことに大声で「ghost」を歌い続けていた。まさにその、叫びのような「gho—st!」のところで思い切り首筋に力が入ってしまい、ブレーキに置いていた指が引き締まる。肩から上はなるべく使わないようにと、整体の先生に言われていたのに。
ランドセルと一緒に背負い込んでしまった岩石レベルのひどい肩こり、「それをどうにかしたいのであれば、まずは赤ん坊に戻らなくちゃね」。ハイハイをせずにいきなり立ち上がってしまったわたしは、自分の身体をうまく把握できないまま大人になった。その結果、いつも身体を置き去りにして、頭だけで世界をうろうろしてきたらしい。「それってつまりろくろ首みたいに?」と先生に問うと、「いやむしろ、鎖のついた鉄の玉を、振り子みたいにブーンと振った反動で移動している」と言われておかしかった。
坂を下り切り、また少し上って左右に伸びる道を行ったり来たりする。ふたつの公園のまわりをそれぞれぐるぐる回ったところで、赤みちをすべて走り切ってしまったことに気がついた。でもまだ家に帰りたくない。歌も歌い終わっていない。電話でもしていたのか、公園のベンチには人がいて、わたしはあわてて口をつぐんでいた。
身体をもっているということは、人前に自分の身体をさらすということである。つまり自分の身体が相手に見えてしまう。しかもそれは、そこに石ころが転がっているようなかたちで相手に見えているわけではない。身体どうしが出会ったとき、その身体はおたがいに気がかりな存在としてある。
–『「私」とは何か―ことばと身体の出会い』/浜田寿美男/講談社/1999
連載のテーマを決めたとき、まっさきに開いたのがこの本だった。言語の獲得と身体的体験を通じて子どもの「自我」がつくられていく、そのプロセスを発達心理学の観点から詳しく紐解いていて、これは…と思ったのだ。人間は、他者の身体と出会うことを「あらかじめ予定して生まれてくる」。言葉を交わし、身体をさらし合うという「他者との絡み合い」こそが、わたしを「私」にしていくのだと。
思い切って赤みちを外れ、公道に出た。自動車が通る道を走るのはやっぱり怖い。縁石の段差をがたんと降りながら、お尻に強い振動が伝わるのを感じた。家と学校の往復ばかりで、団地の外を自転車で走ったことは数えるほどしかなかった。さて、どこへ行こう。この時間、開いているのはコンビニしかない。でも、日光よりもずっとまぶしい蛍光灯にさらされるのには耐えられない。
車通りを避け、静かな裏道を選んで自転車を走らせる。このエリアには小さな戸建ても肩を寄せ合うように並んでいて、庭と呼ぶには狭すぎるわずかなスペースに、丁寧に手入れされた夏の植物たちがわっと花を開かせていた。
その鮮やかさに見とれながら、ふと、団地だけじゃないのだ、と思った。この家にもあの家にも、いまでは自分が知っている人たちが暮らしている。そうした家々を線でつないだら、複雑なかたちの巨大星座が浮かび上がるだろう。
もしいま彼らが窓からのぞいたら、わたしは顔を上げられるだろうか。窓を見上げ、即席の笑顔を向けて声をかける。「やっほー、こんばんは!」 それとも知らないふりをして、あわてて闇にまぎれるか。いずれにせよ、こうして人の家を外から眺めていることが気まずくなって、ペダルを強く踏み込んだ。
*
先日、学校の運営会議に参加した。NPO法人で運営されているこの小さな学校には、校長のようなリーダーはいない。開校以来、教師と保護者が運営を担っていて、月に一度、こうしてみんなが集まる会議が開かれるのだ。その日は数ヶ月前から結論が出ずにいた審議事項があり、今日こそ決めなくては、という緊張感がただよっていた。
そんななか、わたしは読書会の仲間たちと、アイスブレイクに「じゃんけん列車」を提案することになっていた。音楽に合わせて歩き回り、曲が止まったら近くの人とじゃんけんをして、勝った人の後ろに負けた人がつく、というあのゲームだ。春の運動会で子どもたちと一緒にやって気に入ったらしい松樹が、同じく参加している読書会のミーティングで、「大人たちだけでもやってみたい」と提案していたのだ。最後にはみんながひとつの列車になってつながるのが、この学校の「みんなで運営する」あり方にぴったりだと感じたらしい。ところが松樹は仕事で会議に出られない。だから代わりにわたしが前に立って説明することになったのだった。
正直なところ、わたしは困惑していた。というのも、松樹が言っていたことにぜんぜん納得できなかったからだ。そもそもじゃんけんが嫌いだった。人と向き合い、その場で勝ち負けが決まるじゃんけんを、あと腐れがなくていいと思う人もいるだろう。でも負けたら当然くやしいし、それがわかっているから勝ってもなんだか気まずくなる。人間関係において、感情が揺さぶられることを過度におそれていた子ども時代のわたしにとって、じゃんけんはかなり危ないゲームだった。
その上、じゃんけん列車では負けた人が相手の後ろにつかなくてはいけない。誰かに従い、もしくは従えながら移動し続けるなんて、それってほんとにいいことなんだろうか。列の後ろで、ただ流されるようによろよろと前についていった、子どものころの体験がよみがえる。大きなものに巻き込まれながら、主体性をうしなっていくあの感覚を、ポジティブなものとはとても思えなかった。
会場では、音楽の先生がピアノを弾いてくれることになっていた。軽快なメロディーが流れ、音が止まるたびにペアを見つけてじゃんけんをする。わたしの最初の相手は、高学年の先輩お母さんだった。以前遠くから見かけたとき、さっぱりと切られたショートヘアや、単色のシャープな着こなしから、どこか「こわそう」と感じていた人だった。直接話したことはなく、わずかに目が合ったときにそう感じたのだ。子どもが誰なのかもわからない。わ〜気まずい、と思いながら、視線を落としてじゃんけんをしたら、勝ってしまってさらに気まずかった。
「あ、じゃあ、」と言いながら彼女に背を向ける。肩に置かれる手を感じた瞬間、急に申し訳ない気持ちが湧いてきた。後ろに従えてしまったから、ではなかった。置かれた手が、思いのほか温かかったからだ。そしてわたしが重く感じないように、それでも温度だけがしっかり伝わる程度にそっと触れられた手に、彼女の何気ない気遣いを感じたからだった。
「きちは基本、反感から入るもんね!」 松樹に最近指摘されたように、わたしが人に持つ第一印象はどうやらネガティブなものらしい。緊張して身構えて、そのつもりもないのに相手に悪意を見出している。悪意と言っても、「なんかこわそう」とか「話が合わなそう」とか、たいていがポップなもので、だからこそ無意識のうちに相手を遠ざけることになる。もしくはちゃんと顔を見ず、のっぺらぼうの存在として記憶の片隅に追いやってしまう。そのことにしばらくは気づかない。そして出会いを重ねるうちに、ようやく思い至るのだ。やさしいとかつめたいとかだけでは括れない、人間本来の複雑さが、誰のなかにもあることに。そしてそれは言葉でも表情でもなく、日々のささやかな行為のなかに現れるということに。
次々と勝ち進みながら、わたしの後ろには列ができていった。新しい相手と対戦するたびに、彼女がわたしの背中を支えてくれているような感覚を持った。これだって勝手な思い込みかもしれない。ふとゲーテの言葉が頭をよぎる。「感覚はあざむかない。判断があざむくのだ」。
列はどんどん長くなり、列車というより、蛇のように会場をうねりはじめていた。わたしはついにじゃんけんに負け、長い列の最後尾についた。目の前にはたくさんの背中が連なり、先頭が誰なのかもわからない。それでも、前の人の肩をつかみ、後ろの人に肩を支えられているという感覚は、思いのほか心地よく、何よりわくわくするものだった。身体を大きな流れに溶け込ませながら、手と肩に感じる触覚でわずかに自分の輪郭を保っている。このダイナミックなうねりのなかで、わたしはこれまで感じそこねていた身体の知性みたいなものを強く感じていた。
最後のひとりが勝ち、やがて列は大きな円になった。会場いっぱいの輪のなかで、みんな子どもみたいに上気して、にこにこと顔を見合わせていた。じゃんけんだけで進んでいく単純なゲーム。それでも、椅子取りゲームみたいに誰かが弾かれ、花いちもんめのように対立したまま終わるわけでもない。列が長くなるほど、うねる蛇が別のグループなのか自分の尻尾なのか、だんだんわからなくなってくる。それでも先頭を行くなかで生まれる意志のようなものがあり、また後ろについたからこそ見える景色がある。
「でも何よりも、こうして何かを体験したあと、胸に湧き上がってくる新鮮な思いを、みんなで共有できることがうれしいです。いちいち言葉にして伝えてもいいんだって、思えるような場所があることが」。 輪から一歩進み出て、わたしはこんなことを言った。緊張で声がふるえていたけれど、いつわりのない素直な感想だった。そして、これまで頭だけで世界を移動してきたわたしは、大蛇のようにどこまでも伸びる巨大な身体を手に入れたのだった。
*
心地よい風はすでに弱まり、湿度が上がりはじめていた。首に汗がにじむのを感じながら、団地に続く坂道を上っていく。と、木の根っこで盛り上がったコンクリートに車輪を乗り上げ、転びそうになった。片足でよろよろと車体を支えながら、ふと誰かに見られている気がして、わたしは思わず振り返る。見晴らしのいい、さえぎるもののない赤みちが、後ろにまっすぐ伸びている。
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プロフィール

文章と翻訳。2020年よりパーソナルな語りとフィクションによる救いをテーマにしたzineを定期的に発行。zineをもとにした空間の展示や言葉の作品制作も行う。主な著書に『だめをだいじょぶにしていく日々だよ』(twililight)、訳書に『人種差別をしない・させないための20のレッスン』(DU BOOKS)などがある。現在はルドルフ・シュタイナーのアントロポゾフィーに取り組みつつ、新しく引っ越してきた郊外の団地にて、長年苦手としてきた「人とともにいること」の学びと向き合っている。
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